テレホン法話_2016年   TEL:083-973-0111

2016.12.2131

邦西組 照蓮寺 岡村遵賢

 

 私のお寺の鐘撞き堂からは、響灘の彼方に沈む奇麗な夕日を臨むことができます。沈み行く夕日の美しさに「もう少し見ていたい。まだ沈んでほしくない。」と思ってみても、いずれその光は弱まり、次第に暗くなっていきます。

 中国の善導大師様は「日の出づる処を生と名づけ、没する処を死と名づく。」と示されました。だいたい私たちは、日の出のように勢いよく泣き叫びながらこの世界に生まれ落ちたのでしょう。期待を背負い、未来と希望に満ちた人生を昇り始め、現在、私はどこまで高く昇ったのでしょうか?最高のちょっと前?今が最高絶好調か…。もはや過去の栄光、既に沈み始めているとは考えたくはありませんが…

 しかしどれ程光り輝く瞬間を迎えても、いづれ沈みゆく夕日のように力弱まり、この命終わっていかなければなりません。

 この死の壁に直面したとき、先の無い絶望と、過ぎ去った事への後悔をぬぐうことができるでしょうか。そこで、この悲しみが沈みゆくあの西の方向に、お浄土という世界を示してくださったのが阿弥陀様でありました。

「その命は、全てを過去に置き去りにしてむなしく沈む命ではない、お浄土に、仏として生まれゆく命なんだ」と。そう告げてくださるのが私の口に称えられる南無阿弥陀仏のお六字です。

 「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終の一念の夕(ゆうべ)、大般涅槃を超証す。」と御開山聖人はお示しです。横超の金剛心という、私がお浄土に生まれゆくたねが、今、この身に満ちている。その証拠が南無阿弥陀仏のお念仏です。

 本日また一日齢をとりました。そしてやがて力なくこの命終わる臨終一念の夕(ゆうべ)を迎えても、その時は大般涅槃というこの上ない悟りの仏となって始まる時です。

 過去にすがるでもなく、未来に賭けるでもなく、ただ今、横超の金剛心のそなわったこの身を、お念仏の中に歓ばせて頂くばかりです。

 

 


2016.12.1120

「支えられながら」

萩組 永照寺 松岡洋之

 

自分ではどうすることもできないことが起きた時、苦しみや悲しみの現実を目の当たりにした時、何かに祈ったり、願ったりしたくなる人間の姿があります。しかし、それは一時的な癒しであって、何の解決にもなりません。祈らずにはおれない状況、何かにすがらなければ生きていけない私たちに、その祈りや願いを叶えようとする所作は、ごまかしでしかなかったという気づきを与えて下さるのがお念仏のみ教えです。

浄土真宗のお念仏のみ教えは、私めあてのみ教えです。私が阿弥陀さまに願ったり、祈ったりするのではなく、阿弥陀さまが私に願いをかけられていることを聞かせていただくみ教えです。苦しみや悲しみは自分一人で抱えていかなければなりません。阿弥陀さまは苦しみ悩む私たちをどうしても救わずにはおれないと願い誓われ、はたらかれています。「お願いだから聞いておくれ」のおよび声。「南無阿弥陀仏」のお念仏となって「必ず救う、われにまかせよ」とよび続けてくださいます。

ご開山親鸞聖人こそ真実に照らされて、ごまかさずに生きられた方でありました。願い祈らずとも「大悲無倦常照我(阿弥陀さまの大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる)」とお示しくださいます。

 

どうすることもできない苦しみや悲しみを抱え、それでも歩んでいかなければいけない人生を阿弥陀さまのはたらきに導かれながら、支えられながら、ごまかすことなく、しっかりと歩ませていただくばかりです。


2016.12.110

「聞いてない私がいました」

豊浦西組 大専寺 木村智教

 

 山口別院 テレホン法話 豊浦西組 大専寺の 木村智教 が お送りします。

 平成25年3月、北海道でお父さんが娘さんを猛吹雪からまもり、お父さんが命を落とし、娘さんが命拾いしたという事故がありました。

 帰り道に車が雪山に突っ込み、近くの家まで出歩いて助けを求めましたが、たどり着いたのは鍵の掛かった牧場の倉庫でした。凍えるような寒さの中、お父さんは死を覚悟しました。そして、

 

「この子だけでも守る」

 

そう決意し、ジャンパーを娘さんに着せて半日近く、抱き続けました。

 それから1年後、『北海道新聞』に娘さんがメッセージを載せられました。「わたしを思っていろいろと注意してくれたのに、わたしはあまえて、お父さんの言う事を何も聞かなかったので、お父さんの気持ちもわからないできた事を、「お父さん、ごめんなさい」と思い、なみだがでたりします。」と綴られました。

 「この子だけでも守る」という決意が明らかにしたのは、「お父さんの言うことをなにも聞かなかった」というご自身のすがたでした。

 親鸞聖人は仏様のお心を「もののにぐるを追はえ取るなり」とお示めし下さいました。仏様にとって私とは、「あなたを護る」という声に全く耳を貸さずに逃げる者にほかなりません。にも関わらず、どこまでも追いかけ、抱きしめて守り抜く。だから、この口から「南無阿弥陀仏」と名乗り出てくださるのです。

 阿弥陀様のご心配は他でもない、この私に注がれたものであります。だからこそ、そのすくいの確かさを今後もおきかせに預かりたいものです。

 

 

南無阿弥陀仏


2016.11.2030

如来様に(いだ)かれる

美祢東組 明楽寺 秋里大勝

 

 先日山口市の百貨店にお買い物に行った際のことです。私が二階の紳士服売り場で商品を見ていると「えぇん、えぇん、お母さぁぁん!」という子どもの激しい泣き声が聞こえてきました。声のほうに顔を向けてみると、四、五歳くらいの女の子が涙と鼻水で顔を濡らしながら泣いていました。迷子です。その日は日曜日ということもあり沢山のお客さんで賑わっていましたから何かの拍子でお母さんと逸れてしまったのでしょう。その泣きじゃくる姿を見ても誰もすぐに声をかけようとはしませんでした。私もその一人でした。見ていると可愛そうになってきたので、誰も声をかけなければ私が声をかけようとしたその時、「○○ちゃぁん、お母さんはここよ!」と泣き声にも勝る大きな声と共にその子のお母さんがやってきました。そして女の子のところまで駆け寄って、その子の背の高さにあわせて腰を下ろし抱きしめて人ごみの中に去っていきました。お母さんに抱きしめられ、お母さんの肩越しから覗いた女の子の顔は、先ほどまでの泣き顔とは打って変わって目を細め、なんとも言えない安心した顔になっていました。その子にとっては何よりも間違いないお母さんに抱かれ安心に満ち溢れた顔でした。

 私達はこの娑婆世界で沢山の苦しみや悩みを抱え、この先何が起こるか分からない不安なる日暮を送っています。そんな私達の姿をご覧くださった阿弥陀如来様は、「見過ごすことはできない」と、私達が願っても頼んでもいないのに阿弥陀如来様の方が私達のいのちを願ってくださり、このいのちに南無阿弥陀仏というお六字の名乗りとなって届いてくださり、そのいのちの全てをしっかり抱きしめて「何があっても大丈夫。もう私の胸の内だから安心をしなさい。あなたのいのちは私と一緒にお浄土に帰るのだよ。」と常に喚んでくださってあるのです。「罔極の仏恩報謝の情 清辰幽夜ただ名を称う 悦ぶに堪えたり我れ称え我れ聞くと雖も これはこれ大悲招喚の声なり」(大厳和上)

この限りある「いのち」は、阿弥陀如来様の限りない「いのち」に抱かれて、はじめてまことの安心を得た人生を歩んで行くことができるのです。それほどのご恩をいただいた私達は、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と仏恩報謝の日暮を送らせていただくばかりであります。

 

南無阿弥陀仏


2016.11.1120

「あなたのために」

                      華松組 西光寺 佐々木世雄

 

 

 今年の7月初旬、バック一つを携えてミャンマーに行ってきました。ミャンマーは仏教国で、たくさんのお寺が建立されています。当たり前にお坊さんが街中を歩き、当たり前に人々は手を合わせます。また、2011年の文民政権成立を契機に民主化が進み、あちらこちらでホテル、インフラ等の建設ラッシュが続いていました。日本からも多くの会社が進出し、ミャンマーの発展に寄与しています。

 

 ある食堂で、日本人技術者の会話が聞こえてきました。

「ただ橋を造るだけではダメなんです!ただ綺麗に造るだけではダメなんです!」

会話の全貌はわかりませんでしたが、外国資本が入りこみ、これから大きく発展していこうとするミャンマーに、小手先の支援、表面だけを繕ってもダメなんだ。物作りに対する姿勢を伝えないといけないのだ、という技術者の熱い思いを垣間見た気がいたしました。

 

 誰かのために、何かのために、自分ではない他者のために。仏教では利他と言います。他者の幸せを願っていける方は、幸せの本質を体得されている方です。自分のためだけに、他のものは蹴落として。自分が一番正しいんだ。仏教では執着と言います。自分の姿そのものに執着をして、苦しみを生み続けてしまう、負のスパイラルです。

 

 私の姿は利他でしょうか、執着でしょうか。仏法を聞くことは、執着のど真ん中で思い通りにいかないと、嘆き、悲しみ、苦悩する私との出遇いです。それはそのまま、執着心の抜けない私を優しく抱きとり、苦しみのど真ん中で、安心せよと喚び続けておられる阿弥陀様との出遇いでもあります。南無阿弥陀仏。「決してあなたを一人にはしない、決してあなたを孤独にはしない。あなたを仏にしていく親がここにおるから安心せよ。」あなたのため、あなたのためとはたらき続ける利他の姿がお念仏として今も躍動しているのです。

 

 

 


2016.11.110

「善導独り仏の正意をあきらかにせり。」

熊毛組 光照寺 松浦成秀

 

いただきましたご讃題は中国は唐の時代にご活躍されました、七高僧は第5祖善導大師さまをたたえられて、親鸞様がお示しくださいました正信偈の一節です。善導独明仏正意、善導独り仏の正意をあきらかにせり。

『観無量寿経』というお経に、下品下生の極悪人が十声の念仏で浄土に往生すると説かれています。

 ここのところを摂論家、(無著菩薩の『摂大乗論』を奉ずる一派)の人たちは、『観無量寿経』に下品下生の極悪人が十声の念仏で浄土に往生すると説かれているのは、実は次の生にすぐ往生するのではなくて、往生は別時である。すなわち遠い将来にいつかは浄土に往生できる因になるということである。なぜなれば、臨終に南無阿弥陀仏と称えたのは、「阿弥陀さま、お願いします」という程度で、単なる願いだけであって往生に必要な行がない。すなわち唯願無行だから、すぐに往生できるのではないと主張しました。

 この説は、たとえば「家を建てたいと願えば家は建つ」といっても、建てたいという願いだけで、これを建てるだけの資金がなければすぐに家が建つわけはない。しかし願いをおこした以上は、いつか資金もできて家を建てることができる、というような理解であります。

 右のような説がひろまったために、当時念仏を修する人はすっかり少なくなってしまったと伝えられます。

 本願の念仏についてのこのような誤った見解を破って、仏の正意を明らかにされたのが、善導大師の六字釈であります。『玄義分』第六和会門の第五会通別時意の章に(真聖全一―四五七)、

今この『観経』の中の十声の称仏は、すなわち十願十行ありて具足す。いかんが具足する。「南無」というはすなわちこれ帰命なり(即是帰命)、またこれ発願回向の義なり(亦是発願回向之義)。「阿弥陀仏」というはすなわちこれその行なり(即是其行)。この義をもっての故に必ず往生をう(以斯義故、必得往生)。

 

とお示しくださいました。「南無」は帰命(機)であるが、発願回向の意味もある。「阿弥陀仏」はその行である。したがって『観経』の十声の念仏は唯願無行ではなくて、願と行とを具足しているから、次の生にはまちがいなく浄土に往生できるのである、と明らかにされたのです。


2016.10.1120

「確かな支え」

岩国組 宗清寺 中村隆教

 

今年も夏が過ぎ、台風が日本列島にやってきております。叩きつけるような雨や、吹き荒れる風には、わかっていても身震いがします。台風が過ぎ去った後、山に入り作業をしていると倒れてしまった木々を目にしました。激しい雨風にあおられ、倒れてしまったのでしょう。倒れた木に目をやるとしっかりと根付いていないものが多いことに気付かされます。しっかりと土に根をはっている木は強風にさらされても簡単には倒れることはありません。間違いのない大地という支えに根差しているからです。私達の人生も順風満帆なことだけではありません。猛烈な逆風にあうこともあるでしょう。その時、何に支えられているかが問われてくるのではないでしょうか。

ある時、身内の方を亡くされた御縁で法座に足を運ばれるようになったおじいさんと話す機会がございました。以前は宗教に懐疑的な姿勢を取っており、自分の家の教えが浄土真宗ということも知らなかったそうで、健康や財産が一番であると考えていたそうです。しかし、年を一つずつ重ねてゆくなかで、自分と関わりをもっていた人達が亡くなったり、健康でありたいと願いながらも、そうあれない現実に直面されました。それまで、どうにかなると思っていたが、どうにもならない問題がそこにあったそうです。そして、み教えに尋ねるうちに、「以前の自分は拠り処とするものを間違えていた。本当はあてにならないものを支えにしてしまっていた。自分の人生が逆風にさらされたとき、そのことを思い知らされました。」とおっしゃられました。

浄土真宗とは、何を支えにしている教えでしょうか。それは、私達を必ず救い取るという阿弥陀様の御本願を中心に据えた確かなものに支えられた教えです。健康や財産は大事です。姿や形となってあらわれるそれらは確実なものとして、私達の目にはうつります。しかし、姿や形あるものはやがて失われてしまいます。それらは、間違いなくどこまでも私達を支えてくれるものではない、本当の拠り処にはならないということを先程のおじいさんは教えて下さいました。人生の順風なときも逆風にさらされたときも絶えず支え続けてくれるもの、そうでなければ確かな支えとはいえません。阿弥陀様はそのことをよくよく知っておられたのでしょう。常に私達と共に歩む間違いのない拠り処になって下さいました。感謝のお念仏を申すばかりであります。

 


2016.10.1~10

「仏法は味わい」

 豊浦西組 蓮行寺 村野晋哉

 

 今年の盆参りで御門徒さんの畑で育てたスイカを御馳走になりました。

 その時、「今年のスイカは甘くて美味しいですよ」と一言おっしゃられました。

 私たちは過去の記憶や経験から、食べ物をみて美味しそうと感じたり、またそうではなかったりもしますが、食べ物が美味しいかどうかは眺めているだけではわかりません。

 自らが食べて初めて、このスイカは甘くて水々しくて美味しいとわかるはずです。

 仏法は味わいであると申しますが、それは我が身にいただくという事であり、私には難しいからと遠ざけたり、また眺めてみるものでもありません。

 酒を飲まずに酔うものがいないように、食べなければ味わいも湧いてはこないはずです。

 そのまま如来様の仰せを我が身に受けたならば。そこには如来大悲の広大なお慈悲の味わいがございます。    

 また、あなたの周りに仏法をすすめてくださった様々なご縁を味わうことが出来るでしょう。

 


2016.9.21~30

「お心をいただく」

柳井組 正福寺 長尾智章

 

 私が小学生のころ、道徳の時間でこのようなお話が紹介されました。牧師ヒュー・テー・ゲル博士の児童説教で『ブラッドレーの請求書』というお話です。

 

 日曜日の朝、ブラッドレーは1枚の紙切れを渡した。その紙にはこのように書いてあった。

 ブラッドレーの請求書

  おつかいちん 1ドル

  おそうじちん 2ドル

  音楽のけいこに行ったごほうび 1ドル

  【合計】 4ドル

と書かれてあった。お母さんはにっこりと笑って何も言わなかった。お昼の時間の時、お母さんはブラッドレーに4ドルのお金を置いておいた。ブラッドレーはそのお金を見て喜んだが、そのお金と一緒に1枚の小さな請求書が添えられていた。

 

 お母さんの請求書

  親切にしてあげた代 0ドル

  病気の時に看病代 0ドル

  服や靴、おもちゃ代 0ドル

  食事代、部屋代 0ドル

  【合計】 0ドル

 これを読んだブラッドレーはお母さんの所へ駆けて行き「お母さん、このお金はお返しします。そして、お母さんのために何でもさせて下さい」と言った。

 

とこのような内容でありました。

これだけの事をしたからそれ相応の対価を得る、これだけやったのにたったこれっぽちじゃ割に合わないという風に、私たちはいつの間にか自分の中に損得で測るものさしを持っているのではないでしょうか。しかし、このお母さんはブラッドレー君にしてあげたことを一切請求されませんでした。それは、親が我が子に対して損得のものさしでは無かったのです。我が子に何か期待を持ってしてあげたことではなく、また周りから褒められたくてしてきたことでもない。ただただ、我が子を放っておくことができない、心配で仕方ないという親の愛情一筋だったのです。その親の心に気付かされたブラッドレー君は、自分にしてくれたご恩を少しでも返したいという心が芽生えたのでした。

 今、私達がいただいているお念仏は当たり前に出てきたものではありません。阿弥陀様は、損得でしか測れずその上で苦しみ悩んでいくこの私をご覧になり、この者を救うことができなければ私は仏にはなるまいとまで願って下さった。その願いが願い通りにこの私を救うはたらきとして、今届い下さっているのが「南無阿弥陀仏」というお念仏でありました。

お念仏は「あなたを見捨てはしない、必ず救うまかせておくれ」「お念仏を申す身となっておくれ、必ず仏となるそのいのちをともに歩ませていただこう」という親さまのお心そのものなのです。そのお心をいただいた私ができる恩返しなど、阿弥陀様には到底割に合うものではないでしょう。しかし、この私が何一つ恩返しできないこの身であることもすでに見抜かれた上で、お念仏を恵み下さったのです。私たちはただそのご恩をよろこび、お念仏申す人生を歩ませていただく。それこそが報恩となるのです。

 


2016.9.1120

「私の領解」

 下松組 光園寺 石田敬信

  

 私は思春期の中学生の時に、人は生きる意味があるのか悩んだことがありました。 

 いつか人は死ぬのに、がんばる意味があるのかと考え、段々と心が荒んでいきました。ある時、担任の先生がそれに気づいて声をかけてくださいました。

 先生は私の悩みを黙って長い時間、聞いてくださいました。私もありのままを話すことができ、とてもすっきりして心がはれました。

 先生は私の話を何も否定せず、何の批判もされませんでした。先生は「私はつらい過去をこえて、今生きていて良かったと思っているよ、死んでいたらあなたにも会えなかったし、こうやって話をすることもなかったんだよ。」と言われました。

 その先生の言葉で、この悩みもいつか誰かの役にたつかもしれないと思い、生きることに意味がないと思わなくなりました。

 この先生とのやりとりと、阿弥陀様の救いは少しだけ似ているところがあります。

 まず、先手というところです。先生が悩んでいる私に先に声をかけてくださいました。

 阿弥陀様は「そのいのち必ず仏にする、私にまかせなさい」と、はるか昔からよび続けてくださってあるのです。私が助けを求める前からです。

 次に、そのままの救いというところです。

 先生は私に言いたいことがあったかもしれません、ですがただ黙って悩んでいる私をそのまま受けとめようと、話を聞いてくださいました。

 阿弥陀様は私に条件をつけませんでした。ここを直せと言われませんでした。条件をつけると私が救いからもれるからです。「そのまま来いよ」とよんでくださいます。 

 一つだけ決定的に違うところがあります。それは私が将来、人の役にたてるかは未定であり、かもしれないというところです。そして私の力では悩みを聞くくらいで精いっぱいで、それは完全な救いとは言えません。

 阿弥陀様は必ず、私を仏にしてくださいます。私が仏になるためのお徳を苦労されて、南無阿弥陀仏の六文字にこめて、私にさしむけてくださったのです。

 私はそれをおいわれのとおり素直にいただき、阿弥陀様におまかせする気持ちでお念仏します。すると私のいのち尽きた後、阿弥陀様のおはたらきによって、100%人を救うことができるのです。 

 今はただ、ありがとうございますとお念仏するだけです。

 阿弥陀様のおかげにより、死んで終わりではなくなり、今生きることにも意味ができたのです。今は私ができることを精いっぱいするだけです。がんばれない時はがんばらなくてもいいのです。阿弥陀様がそのままの私をつつんで、ご一緒くださってあるから今が安心なのです。先生に感謝しています。阿弥陀様にありがとうございます。

南無阿弥陀仏


2016.9.110

「過去」

萩組 浄國寺 杉山恵雄

 

2012年ips細胞の研究でノーベル賞を受賞された、山中伸弥先生という方を御存じでしょうか。

山中先生は元々柔道やラグビーをされていて怪我が絶えなかった経験から整形外科医を目指されたそうです。多分テレビドラマで見るような、難しい手術を次々に成功させていくスーパードクターを目指して日々努力を重ねられたんだと思います。

しかし、実際医師免許を取得し執刀するようになるとある問題が起こりました。それは通常40分程度で終わる手術に2時間かかってしまうほどあまり器用ではなかったという事です。それで、整形外科医の道を諦めて、研究者としての道を歩んでいかれたんだそうです。

 

私の想像になりますが、決して研究者になりたくて今まで努力してきたわけでは無いはずです。だとしたら、仕方なく選んだ研究者としての道は山中先生にとって挫折の道であったかも知れません。でも、この挫折がなかったら、ノーベル賞を受賞するという結果は訪れたでしょうか。そう考えたら、ノーベル賞を受賞した後では、今までの挫折も単なる挫折では無くなりませんか。

 

つまり、今が報われることで、過去が変わっていくという事なんです。過去に起きた事自体は何も変わりません。でも、その事実の持っている意味が変わっていくという事なんです。

 

 

大切な人との別れなど悲しい事はできれば起こって欲しくないですが、必ず出あっていかなければなりません。必ず出あっていかなければならないからこそ南無阿弥陀仏は私に私のいのちの価値を告げ続けておってくださいます。その南無阿弥陀仏を聞くきっかけは悲しいご縁だったとしても、ただ悲しいだけでは終わらずに、出あうことができた今「私にとって必要なご縁でありました、自分の生きてきた道は間違いではなかった」と、人生に彩りを与えてくださるのです。


2016.8.1120

「私のいのち帰っていく場所」

宇部小野田組 浄念寺 吉見勝道

 

 先日、作家、作詞家、タレントであります、永六輔さんがお亡くなりになりました。

 永六輔さんは、浄土真宗のお寺の生まれであります。その永さんのお話です。

 永六輔さんは年間の半分以上、旅をされた方でありました。そんな永さんにあるインタビュアーの方が「今まで旅をしてきた中で、何処が一番良かったですか?」と、尋ねられたそうです。すると永さんは、「私は、人生のほとんどを旅に費やしてきましたが、今まで行って一番良かったところは、どんなところに行っても、自分の家に帰る、その帰り道が一番良かったです。」と答えられたそうです。

 私たちのこの人生というものもよく旅に喩えられますが、旅というものは、帰るところがあるからこその、旅であります。帰るところもなく、ただ、漠然とさまよっているのは、旅ではなく、放浪になります

 この私のいのちの帰っていく場を阿弥陀さまは、お浄土と定めて下さいました。ともすれば、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、行き先もわからないままでいる、この私のためにあなたのいのちは、ここに帰るんだよ、お浄土だよおっしゃって下さっているのです。帰る場所を示すだけでなく、この阿弥陀が必ず連れて帰るからね、と南無阿弥陀仏の六字と成って、もう既にここに届いてくださっておるのです。私たちは、その阿弥陀さまの「帰ってこいよ、大丈夫だぞ」というお喚び声と共に、このいのち精一杯生き抜いていった先に、お浄土へと帰っていくのです。

 

 永六輔さんのお話から、改めて、私のいのち帰っていく場所、お浄土をあじあわさせて頂いたことであります。


2016.8.110

岩国組 教法寺 筑波敬道

 

 自坊の御法座で、いつも帳場に座ってくださる役員さんは、御満座の前に必ずコンビニに買い物に出られ、娘と、妹の子ども達にたくさんのお菓子を買ってくださいます。毎回「有り難うございます」とお礼を申し上げると決まって「わしは、これが楽しみじゃけ」と笑って帰って行かれます。しかし、先日のご法座の出来事でした。いつもの様にお菓子を買ってくださり、御法座終了後に「今日も、子ども達にたくさんのお菓子を有り難うございました」と伝えると、その方が「子どもにやったんじゃない。あれにやったんや」と笑って帰られました。「あれ」とは阿弥陀様をさしていました。役員さんは、阿弥陀様にお供えを運んでくださっていました。私の言葉や受け止めは子ども中心でしたが、役員さんの中心は阿弥陀様でした。

 本堂なり、お仏壇にお参りをした際、私の前に阿弥陀様が立っておられるのでしょうか?それとも、阿弥陀様の前に私が座らせていただいているのでしょうか?「私の前に阿弥陀様が立っておられる」と言う時の主体は私です。「阿弥陀様の前に私が座らせていただいてる」と言う時の主体は阿弥陀様です。親鸞聖人に、どちらの表現が良いかお尋ねしたならば、きっと「阿弥陀様の前に私が座らせていただいているの方だろうな」と言われるように思うのです。

 

 『お正信偈』には、「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」「煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり」とあります。悲しいことに愛憎の煩悩に心を閉ざされている私には、阿弥陀様の光明をまのあたり拝見することはできないけれども、阿弥陀様は光明を放って私を摂め取り、片時も目を離さずに見守っていてくださるとは何というもったいないことかとご述懐されています。それは、私は阿弥陀様を見る者でも、知る者でもない。私を主体にするのでなく、阿弥陀様を主体にしてくださって、阿弥陀様に見守られ、知られる私であったと言われるのです。見る事が出来ない事を嘆くより、見守られ、知られる喜び、たのもしさを味わっておられたのでした。今、ここの、私の事を忘れてくださらない阿弥陀様のご法義が浄土真宗です。


2016.7.2131

「人生の運転手」

豊浦西組 蓮行寺 村野晋哉

 

 私の従兄弟は車のセールスと保険の仕事をしておりますが、自動車事故の際に双方の言い分が食い違い妥協点を提示するが中々折り合いがつがずに長引くケースが少なからずあるが、ドライブレコーダーがどちらかの車についてあると話し合いが比較的スムーズに行われるそうです。ドライブレコーダーとは、運転の記録を映像に残す機能で近年普及しておりますが、取り付けられた方に興味深い話をお聞きしました。自分の運転を後から見ると、随所に『なんだコノヤロー』とか舌打ちなど、無意識に自分の口からでた言動を振り返り恥ずかしくなられたそうです。自分にとって有利な証拠もそうでない事もありのままに記録される事に気付き、運転に以前より気を遣うようになられたそうです。

 御開山親鸞聖人は、自らの事を煩悩具足の凡夫と申されましたが、人と比べて優れている、いや劣っているという物差しではなく、如来さまが見られた私の本当の姿を意識されながか生活をされておられたのではないでしょうか。

 

 日常の生活を、自分中心の物事の考え方や振る舞いをしてはいないだろうかと一年の終わりに振り返らせていただきました。


2016.7.1120

「安心してください、今ですよ。」

萩組 栄照寺 松岡洋之

 

昨年の7月に明治日本の産業革命遺産として岩手県から鹿児島県にまたがり23の資産が世界遺産に登録されました。私の住む萩の街には、その内5つの資産があります。

私のお預かりしているお寺の周りにも点在しており、にわかに観光の方々が増えました。

近すぎてなかなか行かない場所があるというのはよく聞くことですが、私においては萩にあるその世界遺産こそがまさしく近くてなかなか行かない場所に当たります。

今は観光のお客さんが多いみたいだし、もう少しゆとりができたら行ってみようかなぁ、急ぐことでもないし、また今度機会があったら行ってみるかなと理由をつけて、いつか行こうと思ってそのまま。先送りにしている私の姿があります。

 観光地ならそれで済むかもしれませんが、私のいのちの行く先となれば、どうでしょうか。まだ大丈夫とたかをくくっているうちに一生は過ぎ、気がつけば手遅れになってしまうかもしれません。

年を重ねていようが、まだ若かろうが、かならずやってくる、受けいれがたき死という現実。限りあるいのちの解決を限りなきいのちの仏さまにたずねていきます。

虚しく別れていかなければいけなかった人生だった、死んだら終わりかなぁと思う人生だった。そうじゃないよ、そうはさせないよと、すべてのものを必ず漏らさず救うと願われ、はたらいて下さっている仏さまを阿弥陀如来と申し上げます。

 

いのちの行方も知らない私をかならず浄土に迎えとるとはたらかれておられる南無阿弥陀仏を今ともに聞かせていただきます。


2016.7.110

「人生の灯り」

宇部北組 萬福寺 厚見崇

 

 生きていると、自分の思い通りにはならない事にぶちあたります。人間関係の悩み、病気の苦しみ、大切な人との死というお別れの寂しさ。すべてが自分で望んだものではありません。しかしながら、必ずや誰もが自分の思い通りにはならないこの人生を受け入れていかねばならないのです。

 私達を自分の思いだけに囚われた苦しみから解き放して、全てを受け入れた真実の世界に生まれさせたい、と願われた方がおられます。阿弥陀仏とお呼びします。阿弥陀様は必ず全てのものを真実の世界であるお浄土へと生まれさせたい、と願われました。

 その阿弥陀様の願いを、親鸞聖人は『正像末和讃』に

 「無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり」

とお示しくださいました。それは、私達の暗く長い闇夜のような人生に対して、常に明るく照らしてくださる大きな大きな灯りです、と讃えたのです。

 ある夜のこと、私はふと目が覚めました。トイレへ向かおうとすると灯りがありません。明るい昼間なら何とも思わずに歩けていた自宅の廊下も、おそるおそる歩くしかありません。そのまま少し進むと、やっとのぼり出した朝日がわずかに窓から差し込んでいました。すると、それまで一歩だけ進むのも怖かった廊下でも、朝日を灯りにして安心して進む事ができました。怖かった同じ暗闇の道も灯りがあれば堂々と歩んでいけます。

 思い通りにならないと嘆くだけの人生は、ただ暗く苦しいだけです。しかし、そこに灯りがあればちがってきます。私達をお浄土へ生まれさせ救わんとする阿弥陀様の願いを灯りとして歩みます。すると、生まれ、年老いて、病気になり、死なねばならない同じ人生でも、全てを受け入れたお浄土の世界へ向かって、一歩一歩進むことができます。阿弥陀様の願いとともに、人生の灯りとともに歩みましょう。

 

南無阿弥陀仏


2016.6.2130

「お浄土へ帰る」

美祢東組 明楽寺 秋里大勝

 

 私達はお聴聞の中でしばしば「お浄土へ帰る」という言葉を聞きます。「お浄土へ帰る」とは一体どういうことなのでしょうか。私達がもともとお浄土出身の者ということなのでしょうか。

 私の父は大分県のお寺より美東町のお寺に入寺いたしました。父方の祖父は私が生まれる前に亡くなりましたが、祖母は7年前に亡くなりました。体の大きな祖母でした。それまで父が里帰りをする際には「大分に帰る」と言っていました。しかし祖母が亡くなってからというもの、里帰りをする際は「大分に行く」と言うようになりました。祖母が健在であろうと亡くなろうと帰る(行く)場所は同じ大分のお寺なのですが、言い方が変わりました。それはなぜかと言うと、そこに父の帰りを誰よりも待ってくれる祖母がいなくなったからです。私はその父の変化を通して「帰るということは、ただ単に生まれた場所に行くということではなく、仮に場所が変われども我が親が待っておってくれるところに行くということなんだな。」と気付かされました。

 「私のいのちがお浄土へ帰る」というということは、私が元々お浄土の出身者ということではなく、何があってもそのままの私を抱きしめてくださる我がいのちの親様、阿弥陀如来様のところへ帰らせていただくということなのです。「お前には永遠ないのちの親がおるんだよ、お前には安心して帰るいのちの古里があるんだよ、ただただこの親里へ帰ってきてくれよ。」と願いを込めて喚んでくださる阿弥陀如来様の御声が、いま南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお念仏となって私の耳に聞こえてくださってあるのです。この南無阿弥陀仏を親様の喚び声といただいたことを、真実のみ仏にあわせていただいたというのです。

 

称名


2016.6.1120

「正見」

宇部小野田組 法泉寺 中山教昭

 

 私は子どもの頃、寺の本堂でよく遊んでいました。子ども会とかで、友達と走り回ったり、ボールを使って、野球やサッカーなんかもしたりして、よく怒られたものでした。本堂で遊ぶ時は、本堂を目一杯使うので、走り回りながら、窮屈に感じ、「もっと広かったらもっと楽しめるのに、あー狭いな」と思っていました。

 それとは別の時に、お寺の行事か何かがあって、その準備ということで本堂の掃除をやらされることがありました。「せっかくの休みなのになんで俺が掃除なんかせんにゃいけんのか」と思いながら、掃除機をかけているのですが、なかなか進まない、いつまで経っても終わらない、「もっと狭かったらええのに、あー広いな」と思いました。

 広さは全く同じ部屋なはずなのに、そのとき何をしているかによって広い、狭いと感じ方が大きく変わります。

 同じように普段の平日なら、なかなか週末が来ないのに、GWは気づけば、週末になっていたような気がします。同じ1週間でも休みが何日もある1週間と学校や仕事が毎日のように続く1週間では感じ方が大きく異なります。

 

私たちは自分の都合に合った色眼鏡を使ってものごとを見てしまうので、全く同じものでも、同じように見たり感じたりすることはできず、状況に応じて広い、狭い、長い、短いと感じます。このように、自分の都合でものごとを見てしまう間違ったものの見方しかできないあり方を迷いと言い、逆に、正しくものごとを見る智慧を身につけたあり方を悟りと言います。迷いから悟りの境地に至るにはものごとを正しくありのままに見る智慧を身につけなければなりませんが、私たち人間誰もが抱えている煩悩という汚い心が邪魔してものごとを正しくありのままに見ることはできません。迷いから悟りへ自ら歩む力を全く持っていない私は、いつまでも迷ったままで、迷いを抜け出す道はないのかと言うと、そうではありません。迷いというあり方のものをそのまま迷いというあり方に留まらせるのではなく、悟りというあり方に転換させる、悟りという世界に生まれさせる、私が救われる道を阿弥陀様は用意してくださいました。

 

 

 

 

 


2016.6.110

「いま、私(ここ)に」

柳井組 正福寺 長尾智章

 

新しい年度に変わり早や2ヶ月が経ちました。年度替わりは生活の変化が多い時期であります。学校では、新入生が入ってきたり、新学期が始まります。会社では、新社会人としての新たなスタートを切っていく人など、この時期は物事のはじまりを装う季節でもあります。

私は大学生の時、初めて一人暮らしを始めました。いわゆる新生活をスタートしたのです。これまでは家族と一緒に暮らしていた為、親の監視下のなか自由が制限されていました。しかし一人になったことで自分を縛っていたものはなくなり、自由がきくようになり次第に衣食住が乱れていきました。

そんな生活をしていく中で、時々実家からダンボールが届いていました。中を開けると、そこには食糧や生活用品、また栄養剤などが入っていました。お金の無い学生にはとても有り難いものでした。そして毎回ダンボールの中には1通の手紙が入っており、それは母からでした。「元気にしてる?ちゃんと食べてる?風邪とかひいてない?・・・」とそこには私の身体を気遣う内容でした。しかし、いつも私は早々にその手紙に目を通し、それよりも送られてきた物の方へと意識が向いていました。

そんな母からの気遣いをよそにいつものように衣食住が乱れた生活を続ける中、ある時インフルエンザにかかってしまったのです。病院からもらった薬を飲みますが、なかなか高熱はおさまらず、嘔吐も激しく寝ることすら大変辛い状況でした。そこでいつも仕送りで入れてくれていた栄養剤がとても重宝し、体調も徐々に回復していきました。

そんな栄養剤を摂取する中で、一緒に入っていた母からの手紙をふと思い出し、これまで送られてきた手紙を読み返しました。元気な時はさらっと目を通すだけであったのが、一人で辛く苦しく心細いその時ばかりは私のことを気遣う母の想いがとても響きました。その手紙を何度も読み返しては目頭が熱くなり、まるで今自分のそばにいてくれているかのようなぬくもりがその手紙にはありました。仕送りで送られてきた当初は、お金がない自分にはその食糧などの物資、つまりその「物」が有り難いと思っていました。しかし、母はどこまでも心配で仕方ないとこの私をおもう心そのものが、物資という「物」を通して、「手紙」を通してこの私のもとへと届いてくれていたのでした。距離ではお互い遠く離れていても、母の心はいつでもこの私とともにあったのでありました。

 

今こうして私達がいただいているお念仏もまた、阿弥陀様から「あなたのことが心配で仕方がないんだよ、いつでもあなたとともにいるからね」と、いつでもどこでも誰にでも、それは今ここにこの私一人のためにと、ナンマンダブツの声となって我が身に至り届いて下さっています。そのお念仏をいただきながら歩んでいく人生は、苦しみや悲しみはありながらも、たしかな拠り所をいただいた安心の中にある私であったと気付かせていただくのでありました。


2016.5.2131

「弥陀の救い」

周南組 真行寺 佐々木大乗

 

 このご法義をお聴聞させていただきますと、日常の日暮らしの中から、なるほどと思わせていただくことが多々あります。

 わたしは仕事で他県に行くとき、少し前まではほとんどが車移動でした。しかながら車移動は疲れも残るので、最近はよく新幹線を利用するのですが、その新幹線をホームで待つ時によくよく気にかけてしまうことがあります。それは、ホームに流れるアナウンスです。ある時は「本日は新幹線を利用していただきまして、誠に有り難うございます。」とながれ、またある時は「本日は新幹線を利用して下さいまして、誠に有り難うございます。」とながれます。

この「いただく」と「くださる」という言葉、普段当たり前のようによく耳にする言葉ですが、この言葉の使い方の違いが一体どこにあるのか、皆さんは考えたことがございますでしょうか?

 この違いがどこにあるのかいうと、それは、いただいたのは誰か?下さったのは誰か?というところであります。そうすると、「いただくのはわたし」であって、「下さるのはあなた」ということになりますから、つまり、わたしが主体となった自己中心的なものの言い方なのか、それとも、相手を主体とし相手をたてたものの言い方なのかという違い目がそこにあるのです。

ちょっとしたことのように思うかもしれませんが、実はこの違いは大変大きいのではないでしょうか。

 

 今、このご法義を「わたし」がお聴聞させていただいておるわけですが、聞いたわたしに手柄があるわけではありません。このご法義はあくまでも阿弥陀様のご法義です。私が主ではなく、阿弥陀様が主であります。

 私が信じ何かしないとお助けにあずかれないなどという思いの中で、私が信じて助けていただくということを聞くのではなく、信じようが信じまいがあなたを決して見捨てはしないと、私が願うその前からこの私を願い、救わずにはおれんとお救い下さる阿弥陀様、そんな阿弥陀様のご苦労、おこころをお聴聞させていただくばかりであります。

 

 そして、あなたが幸せでなければわたしも幸せにはなれないと、あなたが、、、あなたが、、、と、阿弥陀様からすれば他であるこのわたしのことを第一に思って下さる、そんなお慈悲をお聴聞させていただく中に、わたし達も今以上に相手を思い、相手を大切にする、そんな心を養わせていただきたいものであります。


 2016.5.1120

「いただきます」

宇部北組 光安寺 藤永公証

 

 高校生のときのお昼ご飯のお話です。私は毎日母親が作ったお弁当を学校に持ってきていただいておりました。当時の私は、子どもの食事を親が用意するということは当たり前だと思っており、いちいち感謝することもありませんでした。

 

 高校3年生の頃、私が原因で母親と大喧嘩をしたことがありました。次の日の朝、学校に行く時ふとテーブルの上を見ると、母が早起きして作ってくれたお弁当が置いてあります。けれども、喧嘩中で母に対して怒りでいっぱいの私はそのお弁当を到底食べる気になれません。ですからわざとお弁当を持って行かずに家を出ようとしました。するとそれに気づいた母が「お弁当持っていきんさい、お腹すくよ」と手渡してきたんです。私はこの時とんでもないことをしてしまいました。母が手渡そうとするお弁当を手にとり「こんなもんいるか!」と言って近くのゴミ箱に投げ捨ててしまったのです。悲しそうな顔をしている母を無視して学校に向かい、その日は売店でパンを買ってお昼を済ませました。

 

 その夜、さすがにやり過ぎたかなあ、もう明日からお弁当作ってくれないだろうなあ、なんて思いながら次の日の朝を迎えました。そして目が覚めます。起きてきて、ふとテーブルの上を見てみると、なんとお弁当がいつものように置いてあるんです。私は驚きながらも少し安心して、バツが悪そうにそのお弁当を持って行きました。

 その日、お昼になってお弁当の蓋を開けた時、私は涙が出そうになりました。そのお弁当の中身は、唐揚げにハンバーグにポテトサラダに、私の大好物がこれでもかっていうくらいギュウギュウに詰めてあったんです。

 

 母は目の前でお弁当を投げ捨てた私を叱ることはありませんでした。それどころか、母が一番に考えたことは、どうやったら私がまたお弁当を食べてくれるだろうかということでした。自分のことでいっぱいいっぱいの私のことをどこまでも心配してくれる暖かい親心が、その日のお弁当の中に見えたことであります。自然に口から「いただきます、ありがとう」という言葉がこぼれていました。

 

 私がいただいております「南無阿弥陀仏」の六字には、何があっても必ずお浄土に生まれさせるからね、仏にするからね、まかせてね、という阿弥陀様の暖かいお心がこめられています。そのお心は、私が気づくよりもずっと前から私に向けられておりました。そして自分勝手に生きる私を強く抱きとってくださいました。

 

 いま、阿弥陀様の必ず救うというお心をいただいて「たしかにお心をいただきました、ありがとうございます、ナンマンダブ」とお念仏申させていただくばかりであります。


2016.5.1~10

 

「またお参りさせてさせていただきます」

 

豊浦西組 大専寺 木村智教

 

 三年前の10月終わりのことでした。地元のとある高齢者住宅の玄関前で、長年お寺のお世話をされた一人のおばあさんがしっかり私の目を見つめてこうおっしゃいました。

「新発意さん。しばらくお寺にお参り出来ず、大変申し訳ございません。また必ずお参りさせていただきます。」そう仰り、私の手を握られました。私は「ぜひまたお参り下さいね。」と答え、その場を後にしました。そして、年が明けてすぐ、おばあさんは入院先の病院で静かに息を引き取りました。数えで93歳でした。

 今ふりかえりますと、おばあさんは亡くなる二ヶ月前に、「お寺へお参りさせていただきます」と仰いました。しかし、そうは言っても自分の身体がついてこない事は、ご自身が一番良く分かっておられたことでしょう。しかし「必ずお参りさせていただきます」と言わずにはおれなかった。「お寺にお参りさせていただきます」ということは、大なり小なりご法座が開かれているということです。ご法座にお参りする事を私に仰るということは、その場に私もいるということです。だから、「一緒に仏様のおみのりをお聴聞しましょうね」と、私を誘ってくださったのです。

 おばあさんは自ら生涯を通して、仏様の絶え間ないお育てを受けられたそのままに、仏様のおみのりをお聞かせいただく場へと私をお導き下さいました。

 今、お電話で聞いているそこのあなたも、ご縁あるお寺様で開かれているご法座へ、一度お参りされてみてはいかがでしょうか。

 

南無阿弥陀仏

 

 


2016.4.11~20

「最も過酷な仕事」

萩組 浄國寺 杉山恵雄

 

最近あるCMに出会いました。それは、ある会社が詳細な業務内容を明かさずにただ、「監督募集」とだけ書いて、求人広告を出す場面から始まります。そして何を監督するのかは不明なまま、数人が面接を受けます。

面接のときに初めて業務内容が明かされました。その内容は、「人とのコミュニケーション能力や交渉能力、時には薬や金融の知識等を用いて常に冷静に行動できる責任感のある人材を求めている。」というものです。そして、面接官はさらに条件を言います。「ずっと立ちっぱなしで常に動きまわらなければならない業務の為、スタミナが求められます。実際の勤務時間は毎日約19時間です。ちなみに勤務中に休憩はありません」この発言に対し応募者は唖然としながらも質問をします。「休日も無いなんて、本当に合法な仕事なの?」これに対し面接官は答えます。「はい、合法です。むしろ日曜・祝日は仕事が増えますし、長期休暇も取れません」って。応募者はみんな不満顔です。

最後に給与についての話が始まります。面接官は言います。「給料はありません」って。この一言に今まで我慢していた応募者が一斉に反論します。「ありえない、無収入でこんな重労働に就きたい人なんているはずがないでしょ」って。でも、面接官は答えます。「いや、この仕事を望んでいる人は世界中に数えきれないほどいます。まだ分かりませんか、この仕事の名前はお母さんです」そう言われてみんな一斉に泣き崩れ、「お母さん、ありがとう」って感謝の気持ちを述べるというものでした。

これは「母の日に感謝のメッセージを送りましょう」というCMだったので、お母さんの事だけしか言っていませんが、要は私を引き受け、育ててくれるもののはたらきを「最も過酷な仕事」と言っているのです。

 

親は最も過酷といわれるほどの努力を、頼まれたわけでも願われたわけでもないのに続けておってくれた。私が「お母さん」と呼ぶ為にはこれほどまでの親の努力が必要なのでしょうね。そうやって聞かせていただくと南無阿弥陀仏という仏様が声となって、もう既に私の口から出てくださるという事は仏様の方ががんばってくださったってこと。私は望んで手に入るものだけが宝物だと思っていたが、本当の宝物はもう既に私の元で大活躍の最中でありました。


 

2016.04.0110

 

往生は一人のしのぎなり

 

邦西組 照蓮寺 岡村遵賢

 

 

 

 先日、私は久々に飛行機に乗りました。高度10,000メートルの、雲の彼方を延々とんでゆきました。今、当たり前のように飛行機では空港を飛び立ち、目的地に到着します。ダビンチのひらめきに始まりライト兄弟の勇気を持って今や飛行機はおろか、ロケットに乗って宇宙まで飛び出してゆきます。

 

 しかし、これらが完成するまでにどれほどの失敗があったでしょうか。初めて月に着陸したのはアポロ11号でした。1号から10号までは失敗に終わったということです。みんなの期待を背負ったままアポロ1号は燃えていきました。

 

 ところで私の人生は今何回目でしょうか。11回目の人生ですという方はおそらくおられないでしょう。私は、私1号のはずです。初めてこの世に生まれ、初めて学校に行き、初めて恋に落ち、初めて別れを知り、そして初めて死んでいかねばなりません。

 

 ならばリハーサルなしのこの人生は失敗するなという方が難しく、むしろ何が成功かも分からないうちに「もしただいまも無常の風きたりて誘いなば、いかなる病苦にあいてかむなしくなりなんや」と蓮如上人のお示しの如く、次の瞬間の保証もありません。

 

 この未完成で終わるはずの人生に、完成された救いをご用意くださったのが阿弥陀如来という仏様です。仏様の救いに出遇うということは「私の方が正しい」と思いながら迷い行く自らの有り様を知らされ、自らを犠牲にしてでも他の者を救おうとゆうお慈悲に出遇うということです。そのお慈悲が今私にはたらいている証拠がこの口に称えられる南無阿弥陀佛のお念仏でありました。このお念仏は私に確かな行く先を告げてくださいます。

 

 初めての今日という日を手探りのまま進みながら失敗のうちに死にゆくはずの私でありました。この度、今日という日はむなしい死に向かっているのではなくお浄土の仏とならせて頂く間違いない方向に向かっているのだとお念仏に聞かせて頂くばかりです。

 


2016.3.2130

「 虚 妄 顛 倒 」

岩国組  浄蓮寺  樹木 正法

  

昨年までウルグアイ第40代大統領として在任していたホセ・ムヒカという方は、「世界で最も貧しい大統領」といわれました。それはなぜかといいますと、ムヒカ前大統領は在任中、大統領公邸でなく首都郊外の質素な家屋に住み、個人資産といえば18万円相当の中古車1台。在任中の月給はその9割を社会福祉のために寄付し、一国の大統領でありながら、生活費はひと月10万円程度という非常に慎ましい生活を送っていたからです。

貧困家庭に生まれ、若い頃は軍事政権のもとゲリラ組織員として活動していたこともあり、13年の服役生活も経験しています。そんな壮絶な人生を通して導き出された哲学と信念、そしてその信念を実践しながらの生き方から紡ぎだされる言葉というものに、多くの人々は感動し心を震わせました。

その言葉の一つをご紹介しますと、国連でのスピーチにおいて

「目の前にある危機は地球環境の危機ではなく、わたしたちの生き方の危機です。人間は、いまや自分たちが生きるためにつくったしくみをうまく使いこなすことができず、むしろそのしくみによって危機におちいったのです。」

続いて、

「私たちは発展するために生まれてきたわけではありません。幸せになるために地球にやってきたのです。」

というものです。

私はこの言葉を聞いて、非常に仏教的な視点を感じました。それは、この私には貪欲というむさぼりの心があります。そしてこの貪欲を満たすことが、世間では幸せとされております。しかし、この貪欲は厄介なもので、収まりどころがありません。最終的にはコントロールを失い自らが破滅していきます。まさにムヒカ前大統領の言う「発展」ということです。

そしてこれが厄介というのは、貪欲を起こしているとき自らがむさぼっていることに気付いていないことです。むしろこれが「生きるためのしくみなのだから」と正当な生き方をしているとすら思いこんでいます。幸せを求めながら自らを傷つける生き方、これでは本末転倒です。これを仏教では「虚妄顛倒」といいます。虚構の妄想にとらわれ、真実の在り方が逆転してしまっているすがたです。

 

他の痛みに寄り添いはたらき、そのものを目覚めさせることを喜びとしているのが仏さまです。その仏さまがお念仏となってご一緒ということは、虚妄顛倒している浅ましいすがたを悲しまれている方がおわしますことを知らされるとともに、離れ賜わずご一緒の仏様を知らされることです。これを「幸せ」といい「ご恩」といいます。


2016.03.1120

岩国組 教法寺 筑波敬道

 

一昨年の十一月、妹の長女が三歳の誕生日を迎えるにあたり、家族全員でお祝いをする事になりました。その際、母親が連れ合いに対して、誕生日ケーキを作るように頼みました。何故、妹の長女の誕生日ケーキを私の連れ合いが作る事になったかと言えば、私達の娘が小麦粉のアレルギーを持っていたからです。

店頭に並んでいるケーキは基本的に小麦粉が使われています。それを買って来たのでは一人ケーキを食べる事が出来ない子が出てきます。それが、私達の娘だったのです。そこで、母親は娘の事を一番に理解している連れ合いに、アレルギーの出ない食材を使った、娘も食べる事の出来るケーキを作る様に頼んだのです。その晩、子どもたちが大喜びで美味しそうにケーキを仲良く食べている姿を見た私も心から嬉しくなりました。

この日の誕生日会では、例え主役であっても妹の長女の好みに合わせてしまったのでは、娘はケーキを食べる事が出来ず、楽しめる会にはならなかったでしょう。どのようにすれば、皆がケーキを食べ、楽しい雰囲気のまま会を終える事が出来るのか?それは、あえてアレルギーのある娘に合わせることにありました。合わせる場合は、合わせる側が一方的に合わせるのです。娘に「早くアレルギーを治しなさい」などと伝えるのではなく、相手の状況、素質、素材、能力全てを知り抜いて、一切条件を付けることはありません。条件を付けたところで、その条件を満たすが出来ない事を知っているものが、わざわざ条件を突きつけることはありません。全て合わせる側の仕事です。

世間一般の考え方では、高額で希少価値があり、少人数、一握りの人だけ食べる事の出来るものが素晴らしいもので、一般大衆、多人数が食べることが出来るものは評価されにくいものでしょう。しかし、本当にそうでしょうか?違う考え方もあるはずです。この度の誕生日会で言えば、主役しか食べられないケーキの方がつまらないもので、家族が皆で、楽しく食べられるものの方が素晴らしいものでした。

阿弥陀様が法蔵菩薩という修行者であらせられた時、全ての者を分けへだてなく救い浄土に迎え取ろうと願い立たれたといいます。自力の修行道は、必ず落ちこぼれが出てくるような難行道であるから選び捨て、一人も漏れることなく救い得る称名一行を往生の行として選び取られました。そして「どうかお願いだから、念仏して浄土にうまれて来てほしい」と、救いだけを告げ続けてくださっていました。

世俗のこと、また自身の愛欲と憎悪に振り回されながら、他を傷つけ、自らも傷つきながら生き、さとりを開く手がかりさえもない私の事を救おうと五劫もの間思惟をくださり、今まで見捨てず抱え続けてきてくださっていました。何か一つでも条件がつけば漏れてくる者、落ちこぼれてくる者とは、まぎれもなくこの私だったのです。しかし、この私が漏れてしまっては、命ある全ての者という事にはなりません。だからこそ、この私に条件は一切つけず、この私に合わせてくださったのです。信じさせ、称えさせ、生まれさる。この私の為にと仕上がってくださった方のお名前を阿弥陀様というのです。

 


2016.03.0110

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし

摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる

              熊毛組 光照寺 松浦成秀

 

先日、小さい頃からお世話になり、お寺の御法座にもよくお参りされていたおじいさんの御葬儀を執り行わせていただきました。阿弥陀様よりお預かりさせていただいております光照寺の位置するところは、田や畑に囲まれた中山間地域ですので、都市部ではほとんど見られなくなった、ご自宅での通夜・葬儀でした。長いこと親しんだ我が家から送り出してあげたいという、ご本人とご遺族の希望でありました。

家のお仏壇を中心としたお荘厳の中、葬場勤行が終わったあとで、お孫さんからの手紙を司会の方が代読されました。お孫さん自身が読まれるのは、涙に咽んで難しかったのかもしれません。小さい頃から、おじいさんに可愛がってもらったこと。普段はお父さんお母さんの仕事の都合で街に出ていらっしゃるけれども、夏休みや冬休みの長期休暇になると帰ってきて、爺ちゃんと一緒に散歩や田や畑で農作業をしたこと。嫌いだった人参や野菜もその体験を通して、だんだん食べれるようになったんだよ。旬の美味しいものをいつもありがとうね。

 本当に心温まる思い出を振り返られたあとで、最後にじいちゃんはお浄土に往って仏さまになったんだってね。本当に今までおつかれさ、ありがとう、ありがとう。と締めくくられました。

 

 私たちは人間である以上、どのような人とも必ず別れていかねばなりません。そのような私たちの姿を覩見、見抜いて見抜いて見抜かれた阿弥陀様は、十方衆生を必ず救うと浄土を建立されました。そしてその世界へ、私たち佛の子供を信心一つで必ず往生させるという御本願を建立し、その誓願を成就されました。その救いに出会えた私たちは死んでしまいの人生ではなく、先に浄土に往生された諸仏の導きをいただける人生を歩ませていただけるのです。

 


2016.02.2129

「いのちの音」

豊浦組淨滿寺 新晃眞

 

 千利休の孫に宗旦(そうたん)という方がいました。

 茶道の家元 裏千家にある世界的有名な茶室「今日庵」(こんにちあん)を隠居部屋として作られた方です。

 その宗旦にこんな逸話があります。

 京都の洛北に安居院というお寺の住職と親交がありました。

 その安居院の庭には有名な椿があったそうです。なぜ有名かというと、めったに花をつけない椿だったからです。

 時には蕾をつけても開くことなく終わってしまう、まさに希少価値のある椿だったそうです。その椿がある年、一輪だけ花を開かせました。

 住職はたいそう喜んで、めったに咲かない花の姿の中に、たまたま人間に生まれさせて頂いたこと、

 そして不思議な因縁で仏法に遇い得た我がいのちの姿を重ねながら、いたく感動されたそうです。

 ところが住職は楽しむだけ楽しむと、惜しげもなくその一輪の枝をあっさりと切り、弟子を呼びつけ「宗旦にこれを持って行ってくれ。おそらくとても喜ぶだろう…。茶室に生けたら、さぞうれしかろう」と使いに出したのです。

 頼まれた弟子はおそらくよほど緊張し力が入っていたのでしょう。道中花をポロリと枝から落としてしまったのです。

 花を捨てるわけにもいかず、花と枝をもって宗旦のところを訪れました。

 「私の粗相でした!申し訳ありません!どうぞ住職のおこころをお汲みください!」とそのまま宗旦に渡したのです。

 生け花や立華の世界は散ったもの、しぼんだものには価値を見ません。

ところが宗旦は笑顔で受とり「住職にお礼のお茶を差し上げたいからお招きしてくれ」と頼みました。

 弟子は複雑な思いの中にも住職にその旨を伝え同行しました。

茶室に着くと宗旦はこころよく迎えて、二人は中へ通されますと、床の間の一輪ざしには花のない椿が活けていました。

 そしてその下の畳には椿の花が今にも落ちたように置かれていました。

朝の静寂な部屋の中に、椿の花がたったいま落ちたような「ポトリ」という清らかな音が、見事に活けてあったというのです。

 弟子も住職も深く温かい感動をおぼえたそうです。

 宗旦はしでかした失態をせめるわけでもなく、ただ花の美しさを、いのちの輝きを、散る花びらの上にまで見ていこうとする豊かなこころを私に示します。

 原因を責めても救われません。いまの結果を活かすのが仏道です。

 

 

 


2015.02.1120

「如来様の一生懸命」

防府組 万巧寺 石丸涼道

 

 我々の浄土真宗は南無阿弥陀仏のご法義であります。しかし、南無阿弥陀仏を称えてすくわれていくのではない、もうすでにすくわれているものの口元には、南無阿弥陀仏と如来様があらわれ出て下さっている。そして、今も私の口元から、私を喚び続けて下さっていると聞かせていただくご法義です。だから、私が一生懸命になるのではない、如来様が一生懸命になって下さるご法義なんです。

 先日、旅行で、とあるお寺に参りました。二泊三日のバス旅行です。そこは初めて行く土地であったのですが、バスガイドさんが丁寧にご案内して下さったおかげで、快適に旅行することが出来ました。

 目的地であるお寺に着き、参拝を終えてバスに戻ると、バスガイドさんがマイクを持って開口一番、我々にこう問うんです。

「皆さま、しっかりお参りしてきましたか?」

それはあまり耳慣れない言葉でした。何故だろうか、と考えているうちに「あぁそうだな」と味わわせていただきました。

 もし、我々が一生懸命になってすくわれていくならば、しっかりとお参りしなければなりません。けれども、我々のご法義では一生懸命になるのは私ではありません。如来様が一生懸命になって下さるご法義です。私の一生懸命に用事はありません。聴くと聞こえて下さる如来様の一生懸命に用事があるのです。

 

 その如来様が今も南無阿弥陀仏と私をお喚び下さっていることを、「ああそうか」と聞かせていただくのが浄土真宗のご法義であるといただいております。改めてそのことに気づかせていただいた、有難い旅行の御法縁でありました。


2016.02.01~10

「念仏の行」

下松組専明寺 藤本弘信

 

念仏の行は阿弥陀様が選び取られた行であり、私どもが選んだ行ではありません。

私が選んだものならば、それは真実とはいえません。真実なものは普遍的であり、どんな時代でも地球の裏側でも、文化が違っても変わることはありません。真実とは普遍でなければならないのです。

しかしこの世は、諸行無常、この世は移ろい変わる世の中で、自分の中で普遍的だと思っていても、時が経てば姿・形は変わっていく、この私とて姿・命ですら確かなものではありません。だからこそ、自分の中に真実を見出したとしても、それは夢・幻のごとく消え去ってしまうものなのです。

親鸞聖人は、『教行信証』の中で「念仏成仏これ真宗」とお記しくださっています。

お念仏は、阿弥陀様が選ばれたからこそ、真実であり普遍なのです。色褪せること無い、いつでも・どこでも等しく、私を救う仏様の方の行だったのです。 

私が称えるお念仏は、私の行ではありません。私が選んだものでもありません。称えてくれよと阿弥陀様がご準備くださった、この私のために選んで下さった希有最勝のお念仏でありました。

そう、今私たちが称えるお念仏は、自分で選んで称えたお念仏だったでしょうか。今一度思い返してみてください。初めてお念仏申した時は、自分で称えてやろうと選ばれたでしょうか。いや、それは私に称えさせてくれた大切な方が側にいらっしゃったのではないでしょうか。阿弥陀様がご準備くださったお念仏を、お釈迦様から高僧方・親鸞聖人が、先達の方々、多くのおかげ様によって、今私に届いたお念仏は、自分で選ばれたのではない、阿弥陀様が選ばれた、いただき物でありました。だから真実といえるのです。

 

私をお念仏申す身へとお育てくださった方々を思い出し、最後にご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 


2016.01.1120

「大丈夫かい?」

美和組超専寺 村田亜紀子

 

 昨年、私の友人が仏前結婚式を挙げました。式次第の中には、誓いの言葉がありました。「仏法を聞き、夫婦仲睦まじく互いに尊び、いたわり助け合ってゆくことを誓います。」と、このようなことを新郎新婦が声を揃えて読み上げ、新しい家庭の誕生に式場内はたくさんの笑顔と祝福の声に包まれました。

 

 ところが、お式の後の披露宴の席で、新婦のお父様がご挨拶で仰いました。「先ほどこの二人は阿弥陀さまの御前で結婚の誓いを立てました。『仏法を聞き、夫婦仲睦まじく互いに尊びいたわり助け合ってゆくことを誓います』と、皆様もお聞きの通りです。しかし、この二人のことです。時に誓いが誓いにならないこともあるでしょう。」

さすがお父様です。人生の厳しさ、夫婦生活の大変さも伝えて下さってるんだなと思っておりましたら、次の言葉に驚かされました。

「そこで皆様にお願いです。そんな二人の姿を見かけられました時には、『大丈夫かい?』と声をかけてやってください。」

たとえ傍にいないときでも、我が子が辛い思いをしていないだろうか、相手に辛い思いをさせていないだろうか、親だからこそ、我が子の姿はお見通しなのでしょう。その上で、我が子を心配し、歩むべき道を照らしてゆくような、そんな言葉でした。

 

振り返ってみれば、この私も阿弥陀さまを泣かせ通しです。もっと幸せになりたいと色々を求め、手に入っても満たされず、手に入らなければ愚痴をこぼし、他人を妬み棘の言葉を突きつけて……飽きもせずこんなことの繰り返しです。

そんな私に今日、今この瞬間にも「ナマンダブツ」、喚ばずにおれない親心が口から出、私の耳に、響いて下さいます。

「大丈夫かい?自分の思いにがんじがらめになって息が詰まりそうになっていないかい?大切な人を傷つけてはいないかい?傷つけ合いの中で心が荒んでしまっていないかい?大丈夫かい?」

そんな親心を聞かせていただく中で、お恥ずかしい我が身の姿に気づかされます。

それもすべてお見通しの阿弥陀さま。「大丈夫、大丈夫」と、どっしり受け止めて下さるお心が確かな拠り所となり、我が身振り返りつつ生きる今がここにあります。