基幹運動用語解説「あ」行


◇あくにんしょうき【悪人正機】

阿弥陀仏の救済は、すべてのものにわけへだてなく平等に及んでいるのですが、その中でも悪人こそ、阿弥陀仏のすくいのめあてであるということであって、これは阿弥陀仏の大悲心の深さを示しています。阿弥陀仏の大悲心からいえば、悪人が救われるのは当然ですが、これが曲解されて誤解をうむことも多いようです。悪人とは、自力修行によって仏になりえないもの、煩悩具足としかいいようのないわれら凡夫のことです。


◇あんじん【安心】

心を安ずる、という意味であって、生と死の悩みが解消することです。浄土真宗では信心という語と同様の意味に用いられています。阿弥陀仏の救済に身をまかせ安んずる心のことであって、仏の光明におさめられて〝安堵心″の中に生きることをいいます。また「安心」を〝やすき心″とも読み、他力の信心の取りやすく得やすいことを表わしています。

 

◇いのちといのち【いのちと生命】

〝生命″とは、人間の生命をはじめ、ひろく動植物の生命をふくむ語で、「いのち」と読みますが、運動計画書などで特に〝いのち〟とかなで表記された場合と区別してみるときには、一般的生命、つまり科学的に対象化された生命のことをさしています。これに対して〝いのち″と表記された場合は、一人ひとりのかけがえのない主体的生命という意味で理解したいと思います。他と変わることのできない独立した尊厳性をもつ私のいのち、あなたのいのちという意味を特に強調して表現しています。


◇いれい【慰霊】

死者の霊をまつり慰めること。その背景には霊魂崇拝があり、これを怠ると霊がうかばれず、やすらかでないと考えられています。死者の霊を慰めることは生きている者の大切なつとめとされ、その死者の霊を慰める儀式を慰霊祭といいます。仏教は縁起の法を説き、固定的な不変の実体としての自我を認めませんから、霊魂の存在も認めません。


◇いんが【因果】

ものごとが起こる原因となるものを因といい、それによって引き起こされた結果を果といいます。因があれば必ず果があり、果のあるところ必ず因があるといわれ、一般にはこれを因果の道理といっています。果を生ずるには必ずその直接の原因があるのですが、因は因だけで果を生ずるのではなく、そこには因を助ける間接原因である縁が無数にはたらいているのです。したがって、因縁果の道理ともいわれます。(一般に因果の道理というときは、因と縁を含み、広い意味で因果といいます。)ひとつの因によってひとつの果が生まれるというのではなく、ものごとはすべて互いに因となり縁となり果となって、相依り、相関わって存在するのであり、それ自体単独で存在するものはひとつとしてありえないという理法です。このことを説くのが縁起の教えです。


◇うらない【占い】

未来の出来事、過去や現在のかくされている事柄、あるいは行動の選択について、何らかのしるし(占形)によってその情報を得ようとする法。このしるしと情報との関係が合理的でなく超自然的・非科学的であるところにその特徴があります。易占・星占・日柄の吉凶・方角や干支による吉凶判断、相性などがありますが、これらは主として未来の吉凶禍福を判断、予想するものであります。仏教においてはこうした占いなどのような因果の理法に反するものはすべてこれを否定しています。ことに親鸞聖人は「みずから仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事ふることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」と占いを厳しく否定し戒められています。


◇うらぼんえ【孟蘭盆会】

孟蘭盆とはサンスクリット語の「ウランバナ」の音写で、逆さに吊るされるような非常な苦しみを意味しています。この法要の起源は釈尊の弟子、目連尊者の母が餓鬼道の苦しみから救われたという『孟蘭盆経』に説く故事にあります。一般には 8月15日を中心に行われますが、一部の地域では7月15日を中心に行われています。日本古来の「たままつり」の習俗と仏教信仰とが結びついた行事であって、習俗化して世に広く行われています。浄土真宗では、「たままつり」、または先祖への追善供養として行うのではありません。世々生々の父母兄弟がともどもに苦悩の世界から救済される喜びをあじわい、仏徳を讃嘆する法要として行うのであります。この意味から「歓喜会」ともいっています。


◇エイズ【AIDS】

ヒト免疫不全ウイルス(HIV)によって起こる疾患で、免疫を受け持つ細胞であるリンパ球に感染し、免疫機能の低下をきたします。後天性免疫不全症候群の略称です。性行為、ウイルスに汚染された輸血や血液製剤の投与などでも感染します。また母乳による垂直感染もあります。エイズ患者は 1992年末で全世界では60万人を超え、日本でも患者・感染者数は2000人を超えます。日本ではエイズ予防法が1989年2月に施行されました。エイズは感染しないように予防することも大切ですが、患者・感染者に対する偏見や差別の問題も重要な課題です。過去、ハンセン病患者に対する誤った知識により差別してきたようなことは絶対あってはなりません。現在は、正しい知識を持てるように学校教育の中でも取り組まれています。


◇えいたいきょう【永代経】

主として浄土真宗で用いられる語で、永代読経の略です。永遠に代々、浄土三部経が読誦され、仏法が伝えられることを目的とする法要の名称です。一般に先祖代々の供養のために読経する法要と考えられていますが、これは仏法を聴聞し、仏法を伝えるための法要です。


◇えこう【回向】

回はめぐらすこと、向はさしむけることです。「回向」には、〝自力の回向〟と〝他力の回向〟との二種があります。自力の回向とは、自己がおさめた善根功徳を他にふりむけて、その力によって仏になる因にしようとするものであり、他力の回向とは、仏の側で成就された功徳が、衆生の救いのためにふりむけられることです。


◇えど【穢土】

浄土に対しての言葉。穢とは、貪欲、瞋志、愚痴等の煩悩のことを指しています。払えば清まるような〝けがれ〟などという意味ではなく、われわれ人間の根底に具わる汚れた心のことです。この人間の汚れた業によって造られている世界ですから、如来の清浄の業によって完成された浄土に対して、穢土といいます。


◇えんぎ【縁起】

縁起とは、因縁生起(一切の存在はすべて因と縁の結合によって起きる)という意味です。すべての存在は、因と縁によって生じて仮に存在し、また因と縁がなくなることによって滅するものであるとされていますが、このように因縁によって事柄が生起するものであるという道理を示したものが、縁起といわれるものであり、また、因縁生ともいわれています。縁起は、「縁って起こる」という意味ですが、それは、「縁って起こっている状態」をいうのであり、自己の存在を他と切り離して考えることは誤りであることを示しています。


◇おうじょう【往生】

「往」という語は「ここを捨てて彼の国に往く」という語であって、「生」は煩悩によって成就された穢土を離れて、仏心により成就された浄土に生まれることをいいます。親鸞聖人は、阿弥陀仏から回向された「信心」によって、私たちが阿弥陀仏の浄土に生まれることを、往生と言われました。困った時に「往生した」という使い方をされることがありますが、まったくの誤用であり、私たち念仏者は特に注意しなければなりません。


◇おん【恩】

めぐみの意。他の人のものが、我が身におよぶめぐりあわせのことで、恩恵、恩徳などと使われます。善導大師の『往生礼讃偈』には、「みずから信じ、人を教えて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し、大悲を伝えてあまねく化する、まことに仏恩を報ずるになる」と示されています。親鸞聖人は『正像末和讃』に「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、ほねをくだきても謝すべし」と示されています。このように浄土真宗では、阿弥陀如来に対する報恩感謝の重要性が説かれるのです。


◇おんどうぼう・おんどうぎょう【御同朋・御同行】

この二つの言葉にはもともと区別はありません。親鸞聖人はともに本願を聞き念仏を申す者を「御同朋」とも「御同行」ともいわれています。同じ信仰をもつもの、私たちでいえば浄土真宗の教えを聞いて生きる者たち、つまり真宗の仲間たちをあらわす言葉です。基幹運動の上では、「御同行」ということは同じ教えを聞き、行ずる(念仏申す)意味ですから、浄土真宗の仲間を指していう場合に用いています。また「御同朋」ということは、全てのいのちあるものは阿弥陀如来の平等の大悲に包まれて生きている存在ですから、すべてのいのちあるものを「大悲の仲間」として見、接していく意味で使用しています。


◇おんどうぼうのしゃかい【御同朋の社会】

浄土真宗の教えを聞くことは、いのちあるすべてのものが阿弥陀如来にひとしく救われていく存在であることが明らかになることです。その教えを通して、人間が相互に信頼しあい、いのちの尊厳を認めあい、高めあうことができるのです。このようにお互いに信じあい、たすけあうことができるような関係が成り立つ社会を「御同朋の社会」といいます。