防長における浄土真宗の沿革


防長真宗の源流

 真宗の西日本への伝播の時期や経路を伝える史料はきわめて少なく、いまだ不明な点が多いが、しかし、遅くとも嘉暦元年(1326)にすでに備後沼隈郡地方に一教団が形成されていたことは現存史料から確認されている。

この教団は、京都からではなく、関東から伝えられたもので、それは最初は本願寺教団とは別系統のものであった。

すなわち関東地方には、のちに仏光寺派を開く了源の師明光の流れをくむ人々が各地にいたが、そのなかのひとり慶円が鎌倉から伝えたのがこの一派であった。

これは、呪術的な名帳や絵系図を用いるため、最初は本願寺教団とは無縁の教団であったが、やがてそれらの使用をやめ、本願寺の傘下に入って行った。

 

 そして教線は中国山脈を越えて出雲地方にまで伸張して行ったので、あるいは防長の真宗も最初はこの系譜をひくひとびとによってもたらされたのかもしれないが、しかし、その証拠はなく、もしその当時に伝えられたとしても、それはまだ微々たるものだったにちがいない。

 

  その後、蓮如上人時代に開創されたと記す寺伝も多いが、これも確証はなく、確かな史料の上から、この地方に真宗が本格的に伝播し、活況を呈して来たのが明らかになるのは、これより約200年後の16世紀初、中期からである。

 

 当時の本願寺は、戦国大名の支配からの解放を求めて一向一揆で立ち上った北陸・東海・畿内各地の民衆の精神的よりどころであり、その熱烈な支持を得て大発展をとげていたが、やがて本願寺が山科から海上交通の便に恵まれた大阪に移ると、本願寺配下の畿内有力寺院は西国布教に積極的に乗り出す。

 

 なかでも最もこれに力を入れたのは、かつて仏光寺派にあって活躍し、のち本願寺に帰参した興正寺ならびにその末寺端坊、東坊であった。このうち、端坊は豊後へ進出し、豊後から長門部へ、東坊は安芸から周防東部へ教線を張った。

また、この他にも堺善教寺、摂津仏照寺なともこの時期に西国進出をはじめ、前者は瀬戸内沿岸に、後者は周防西部から山陰へかけて多くの末寺を成立させている。

このように畿内真宗有力寺院が、中世末期に至って飛躍的に教線を伸張し得たのは、当時海上交易を一手に握って繁栄を誇っていた堺商人に真宗門徒が多く、彼らが畿内寺院の西国進出を歓迎し、支援していたからである。

 

 したがって、当時の真宗はまず海上交通の要衝地かその近辺に拠点を形成し、その後次第に山間部へも浸透して行ったのであった。

 


毛利氏と真宗

 悪人正機を説き、迷信を恐れず、しかも教団意識の強固な真宗信仰が民衆の間に拡がり、それが講を組織して横の連帯を強めることは支配階級にとって好ましい現象ではなかった。

そのため戦国大名はこれの弾圧に乗り出し、逆に一向一揆によって手痛い目にあわされることが多かったが、やや遅れて真宗の伝播した中国地方では、権力者はいずれも一向一揆対策で失敗した戦国大名の轍を踏まないよう、真宗門徒に対して慎重な態度に出た。

すなわち、毛利氏や尼子氏などの諸大名はいずれも真宗門徒に対する無謀な弾圧策をとらず、逆にこれを自軍の配下にくみ込み、その工ネルギーを利用しようとしたのであった。

 

 たとえば、毛利氏は、陶氏との厳島合戦においても、また尼子氏の月山城攻撃においても、真宗門徒を味方につけることによって勝利をおさめている。

そして、天下統一を目前とする織田信長が石山本願寺と対決するや、毛利氏は西国門徒と力を合せて本願寺を支援したのだったが、これがまた当地に真宗がさらに一層拡がって行くきっかけともなった。

 

 この石山戦争のとき、本願寺と毛利氏との間を取次いで活躍したのが端坊明念で、明念は石山戦争後は毛利氏配下に入り、秀吉の朝鮮出兵の際は小早川隆景に従って渡海している。

何のために朝鮮にまで渡ったかについては議論の分かれるところであるが、山口端坊文書には、朝鮮において道場を建立し、「念仏道場ト額ヲ掛ラレ明念弘法ス」と記されており、これは真宗教団史上最初の海外布教でもあったと考えられる。

 

 ところで、毛利氏は以上のように真宗を保護する政策をとったのであったが、それは決して自らが真宗信者になったからではない。

そうではなく、圧倒的多数の民衆を基盤とする真宗寺院を保護することによって真宗門徒=民衆との軋轢を回避しようとしたからに他ならない。このため毛利氏では真宗寺院との縁組も積極的に進めている。

 

 すなわち毛利輝元は、その夫人が死去すると萩に清光寺を創立してこれを防長真宗寺院の惣録としたし、また宍戸元秀の次女を自分の養女とし、これを端坊の上寺興正寺門主准尊へ嫁がせている。

そして、この准尊の子准円が清光寺初代住職として萩へ下るのであるが、この准円は石田毛利家二代元倶の娘を夫人としている、といった有様である。

 

 毛利氏が、自からの菩提寺(禅宗)を別に持ちながら、なおこのように婚姻関係を通じて真宗寺院へ接近をはかったのは、真宗門徒がこの時代にすでに無視できないほどの力に成長していたからに他ならない。


江戸時代の真宗

 すでに述べたように、毛利氏は門徒との摩擦をさけるために真宗寺院に心を配っていたが、江戸時代に入ると真宗寺院の中でも、早くから西国布教に積極的で、毛利氏と姻戚関係を結んでいた京都の興正寺(興正寺は大阪にあったが江戸時代には京都へ移転し、西本願寺の南隣に寺基をかまえた)ならびにこの興正寺准尊の子准円が入寺した萩清光寺の両寺を援助することに特に力を入れ、その配下に防長の全真宗寺院を組入れることとした。

つまり、これまで堺善教寺や摂津仏照寺などの末寺や本願寺の直末寺であった寺院に対してまですべて毛利氏と昵懇の興正寺、清光寺両寺へ与力することを命じ、支配関係の一元化をはかった。

ところが、これよりさき本願寺は東西へ分派し、各末寺の帰属が注目されていたが、興正寺はその末寺と共に西本願寺派へ入ることになったため、興正寺、清光寺配下の全防長真宗寺院は必然的に西本願寺派へ帰属することとなり、東本願寺派へ入ることは藩主の命により堅く禁じられた。

 

 このようにして、これ以後、防長の真宗寺院はすべて西本願寺傘下にあって、萩清光寺を録所(=触頭)とし、その統制下におかれ、藩や本山からの命令は清光寺を通して末寺へ伝えられ、また末寺僧侶が本山へ登るときは清光寺ならびに、その上寺京都興正寺の許可を必要とするといった有様で、末寺の行動は毛利氏と由緒深い両寺によって規制されることが多くなった。

 

 また、在家主義を基調とする真宗の立場かは当然のことながら、俗人のままで布教し、死人の弔いもする、いわゆる毛坊主(これを長州薄では辻本と呼んでいた)が江戸時代初期までは広範に存在していたが、幕藩体制の整備の過程で為政者は身分の帰属を明確にすることを求め、その結果、長州藩では万治3年(1660)にこののような半僧半俗の辻本を制法によって禁止してしまった。

これにより多くの辻本は宗教活動を停止して、農業に専念するか、さもなくば本願寺から寺号をもらいうけて、正式寺院になるか、二つに一つを選ぶこととなった。このために17世紀の後半、万治から元禄期にかけて寺号持ち寺院が急激に増加し、現在の寺院の大半はほぼこのころまでに成立したのであった。

 

 江戸時代の寺院はいずれも幕府、藩の厳しい監視下におかれ、布教内容も制約されることが多く、そのため僧侶の活動は消極化し、民衆から遊離する傾向が全般的に強くなった。

しかしその中にあっては、真宗が最も強く独自性を保持し、中世ほどではないにしても、他宗よりははるかに積極的に民衆生活の中に入り込み、活気ある宗教活動を展開していたことは多くの史料から明らかなところである。

たとえば、江戸時代には在家での布教は禁止されていたにもかかわらず真宗僧侶に限りしばしば禁を犯してこれを行なっていたし、また、真宗地帯では厳しく雑修を排し、迷信に惑わされず、独自の宗風を維持している場合が多かったが、長州藩でもそのような現象はかず多く見られたのであった。

隣国の安芸や石見ほどすぐれた宗学者があらわれたわけではないが、しかし強い愛山護法意識は長州藩においても江戸時代を通じて存続し、為政者の眼にそれは不気味に映じたらしい。

たとえば長州藩天保改革の推進者村田清風あたりも、最初は真宗門徒の行動を警戒していたが、しかしやがて、この熱狂的なエネルギーを政治に利用し、キリスト教による外国の侵入を、真宗信仰を強国にすることによって防禦しようと考えるようになった。

そして、このような清風の期待にこたえて登場し、幕末の動乱期に縦横の活躍をしたのが遠崎村(現大畠町)妙円寺月性である。

月性は「仏法護国論」を著し、仏教それも民衆と最も密着している真宗信仰を強化することによって民衆を「一心堅固ナラシメ」、もって外敵から国家を守るべきことを諸国を廻って力説し、多大の反響を呼んだ。また月性は、宇都宮黙霖と共に獄中の吉田松陰にしばしば書簡を送つて討幕思想を説き、ついに松陰をして討幕へ踏みきらせたのであったが、月性の投じた一石は、彼の没後、明治維新期に至ってさらに大きな波紋を描くことになる。


明治維新期における真宗僧の活躍

  いうまでもなく、明治維新において長州藩の果した役割ははかりしれないものがあるが、その長州藩の中でも真宗侶の活躍は目覚ましかった。

金剛隊をはじめいくつかの僧侶隊も結成されたが、それ以上に、藩内が正義派(討幕派)と俗論派(恭順派)に二分して対立しているとき、月性の遺志をついだ真宗僧たちが護法、護国のために正義派を支持すべきことを民衆に説いて廻ったことの意義は大きい。

また、動乱の渦中に大島郡有志が中心になって藩内真宗僧を萩に結集して宗風改正運動を展開したが、この運動に馳せ参じた島地黙雷、大洲鉄然、香川葆晃、赤松連城らはこれがきっかけとなって教団革新運動に乗り出し、やがて維新後は排仏毀釈の嵐の中で、本願寺教団ならびに日本仏教界を代表して明治新政府との衝にあたることとなったのであった。

なかでも島地黙雷を中心に彼らが結束して、新政府の無謀な神道国教政策に対して信教自由論を唱えて抵抗し、新政府の政策を変更せしめ、限定つきながらも信教の自由をからくも勝ちとった功績は大きい。

 

 以上のように、幕末から明治初期にかけて長州藩真宗僧の活躍には目覚ましいものがあったが、このような人材を豊富に輩出し得たということは、長州藩真宗寺院ならびに門徒全般に当時、非常な活気がみなぎっていたことを示す証左といえよう。

 

 なお、長州藩寺院と本山の間に長く介在していた興正寺は、明治初年の大教院分離運動の際に本願寺と意見を異にし、分派独立し、長州藩寺院との関係を完全に断った。

またこれよりさき、江戸時代初頭から藩内寺院の統制機関の役割を果してきた萩清光寺は藩の崩壊と本末制度の解体にともないその機能を停止した。

 

 かくして江戸時代の諸制度ならびにそれにともなう悪弊は払拭され、 そのあと明治13年、新たに発布された「宗規綱領」にもとづいて山口教区教務所が設置され、近代教団として山口教区が発足したのであつた。

 

『ねがいのなかで』所収 防府組 円通寺  児 玉 識(龍谷大学教授)