テレホン法話2022年

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2022年12月21日〜31日 

 

「阿弥陀仏の大掃除」

 

宇部北組萬福寺 厚見 崇

 

大掃除の時期になりました。私は掃除をするのが苦手です。自分の部屋には本や服などが整理されずにあちらこちらに散らかっています。生活用品も100円など安いものだとついつい買い込んでしまって、前にも同じものを買ってあったなんてこともチラホラあります。必要なときに探し物が見つけられずにイライラすることもしばしば。はたからみれば、なんともバカらしい姿ですね。

 

しかし、掃除をしてしまえば、清々しい気持ちの良さです。整理整頓されていると無駄な買い物をするような貪りもないし、探し物が見つからずイライラして怒る必要もありません。愚かなままに過ごすことなく、本当にやりたいことがすぐに出来るのです。そんな環境を知らされると、日々、掃除・整理整頓をしておこうと思います。そう思いますが、実際には、なかなか小まめに掃除が出来ていません。掃除しても、どうせやがて汚れるし、散らかるしと、流されてしまう私です。

 

阿弥陀仏は、私の人生の大掃除をしてくださいます。阿弥陀仏が私の貪り、怒り、愚かさといった汚れを見抜き、お浄土に生まれさせ、安らかな仏にして、それらの汚れを取り除くと誓われました。では、私は阿弥陀仏が大掃除してくれるからといって、心のままに散らかし放題で良いのでしょうか。いいえ、阿弥陀仏の大掃除を頼りとするからには、その阿弥陀仏が汚れと見抜かれた私自身の汚れと向き合い、少しでも手間をとらせまいと、散らかし放題を慎み、少しでも掃除をせずにはおれなくなるのです。

 

日々の掃除も、私自身の人生の掃除も、大掃除まかせで散らかしっぱなしにすることなく、汚れと向き合いながら日々つとめてまいりたいものです。まずは、今日のひと掃除始めてみます。


2022年12月11日〜20日 

 

「お斎(おとき)に込められた思い」

 

華松組安楽寺 金安ちづる

 

今、お預かりしているお寺では、コロナの影響で、法要の「お斎」(食事)の中止が続いております。

 

以前は、門信徒の方々が、朝早くから集まって下さり、にぎやかに「お斎」を作って下さっていました。

 

本堂で法要が営まれ、お勤めが進み、お昼頃になると美味しいにおいが漂ってきて、お昼の「お斎」が、待ち遠しかったことが思い出されます。このお斎は、「報恩講」などの法要に際して、お参りくださる門信徒様が、お米、野菜や味噌などを持ち寄って調理した精進料理を頂く食事のことです。

 

特に「報恩講」の「お斎」の材料には、ひとつひとつに大切な意味が込められて選ばれていると教わったことがあります。

 

たとえば、シイタケは「笠」、ゴボウは「杖」、アブラゲは「袈裟」に見立てられ、親鸞聖人が寒い夜に石を枕にして休まれたとされる「路傍の石」をヤマイモに、手足のあかぎれの血を「人参」と、食材の特徴を活かして、親鸞聖人の関東での御教化の姿に重ねられています。

 

先人の方々は、食事の時も、こうしてお念仏に出遇うことができたのも、聖人の御苦労のおかげ様と味わうことができるようにと、現在「お斎」の材料にも受け継がれています。

 

本願寺第8代蓮如上人は、御膳につかれるときは、親鸞聖人を偲び、如来さまの仏恩の尊さを語られて食事を頂かれたと言われています。

 

そのことをうかがうと、お経を拝読し、ご法話を聞かせて頂くだけでなく、食事を頂くときも、仏事の中の尊いご縁と、味わさせて頂くことの大切さを知らされます。

 

今は、また皆さんとお斎を囲み、ご法義のお話ができるご縁に遇えることを楽しみにしております。


2022年12月1日〜10日 

 

「心を弘誓の仏地に樹てる」

 

白滝組專修寺 高橋 了

 

 

 

お寺に見上げるほど大きなイチョウの木があります。先月は見事に色づきました。写真を撮りに来られる方や、イチョウの絨毯に大喜びで遊ぶ子どもたちの姿もあり、寒さの中にもぬくもりを感じるお寺の風景でした。お参りに来られた方々はイチョウを見上げながら「お寺はイチョウがよくありますが、何か理由があるのですか?」とたずねられます。イチョウは水分が多く燃えにくいことから防火樹とも呼ばれ、火災を発生させないという願いや、他の建物に燃え広がることを防ぐ意味もあるそうです。

 

樹齢は定かではありませんが、大昔から立っているこのイチョウの木。今までに何度も強烈な風を受けてきたはずです。しかし、倒れることなく立っているのは、大地に根を張っているからです。根は目には見えなくとも、木を支えています。

 

人生にたとえるならば、私を支えてくれる揺るがない大地に気づかせていただくことが大切です。大いなるものに気づかされた者の人生は、自らの小ささを同時に知り、自らの今を問い直すことができます。移り変わりゆくこの社会で生きる上でとても大切なことではないでしょうか。

 

親鸞聖人は主著『教行信証』の最後、よろこびいっぱいに次のお言葉を記されました。

 

「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。」

 

さて、何を拠り所として生きますか。どんな大地に根を張りますか。

 

弘誓の仏地とは、この私をどんな時も支えてくださっている阿弥陀さまのお慈悲の大地です。今年もあと少し。振り返ってみますと、日常の中で失敗をすることや、転んでしまうこともたくさんありました。しかし、いつでもどこでも阿弥陀さまのお慈悲の大地の上です。安心して転んで大丈夫です。イチョウから阿弥陀さまのお慈悲を感じたことでありました。


2022年11月21日〜30日 

 

「あなた任せの年の暮れ」

 

豊浦西組大専寺 木村智教

 

今年も残すところあと一月程となりました。俳人の小林一茶は代表作『おらが春』にて「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」と詠み、この一年を締めくくりました。一茶は52才で結婚、54才のときに娘を授かり、「おらが春」とはまさに彼の人生に春が来たことを表すことばでした。しかし翌年5月に娘は天然痘に感染し、それから一月足らずで息を引き取ります。

 

一茶は浄土真宗の門徒です。この年、彼は蓮如上人の『白骨のご文章』を何度も聞いたに違いありません。たとえ親子であっても生き死に順番はない。その心を「おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。」とお示しです。しかしそれがわかっても諦めが付かない。その悲痛な胸の内を「露の世は 露の世ながら さりながら」と、「さりながら」という一言をもって打ち明けます。

 

『白骨のご文章』は「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。」と結ばれます。そのお示しを「あなた任せ」と味わい、「阿弥陀様、私も先立った娘もあなたにお世話になりっぱなしの一年でした」と詠み上げます。

 

この一年は如来様と共に笑い、共に泣いた一年でした。そして来年もどんなに辛くともあなたと共に歩んでいこうと、報謝の真髄を詠んだ一句が「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」であります。

 

ゆく年もくる年もあなたとともに。


2022年11月11日〜20日 

 

白滝組西楽寺 中山信知

 

山口県出身の詩人に、童謡「ぞうさん」で知られるまどみちおさんがいます。そのペンネームは「窓」からの連想で、窓を開ければ世界が広がるというところから思いついたそうです。

 

今まで何度も耳にした童謡「ぞうさん」ですが、その歌詞の意味を最近知りました。「ぞーさん、ぞーさん。お鼻が長いのね。そーよ、母さんも長いのよ。」動物園に行った親子が小さい象を見て話している。「ぞうさんってお鼻が長いんだね。」「そうだよ、お母さん象はもっと鼻が長いんだよ。」そんな会話を勝手に想像していました。しかしこの歌は象を眺める観客の視点ではなく子どもの象を主人公にして歌われたものでした。

 

ある日象の子どもは、他の動物から鼻が長いことを馬鹿にされました。「ぞうさんの鼻って変な鼻だなあ。」確かにライオンもシマウマも鼻は長くありません。そういわれた象さんは怒るでも悲しむでもなくにっこり笑って言いました。「そう、この鼻は僕の大好きなお母さんと同じなんだよ。」と。

 

私達は日々他人と比べながら、その優劣に一喜一憂しながら生活しているのではないでしょうか。容姿が優れているか劣っているか、地位が高いか低いか、健康か健康でないか…。自分の物差しで他のいのちの価値をはかり、判断していく。ともすれば自分自身さえその対象になっていきます。

 

しかし、阿弥陀経というお経の中には、それぞれに輝くお浄土の蓮の様子が描かれています。青い蓮は青い光を放ち、黄色い蓮は黄色い光を放つ。赤い蓮も白い蓮も同じように自らの色を輝かせている。阿弥陀様がご覧になった私のいのちは、きっとかけがえのない尊いものとして輝いているのでしょう。私は独りぼっちではなく、如来様がご一緒下さるいのちを生きています。そして、やがて浄土へ生まれ仏とならせていただく大切な存在です。そして、他の全てのいのちもまた、如来様から願われたいのちであることにも気づかされるのです。


2022年11月1日〜10日 

 

「方便法身」

 

厚狭西組善教寺 寺田弘信

 

季節も移り変わり、日中も肌寒くなって参りました。日課である朝六時の鐘撞きをするなかで、次第に厳しくなる寒さや深まる外の暗さで、本格的な冬の到来を感じさせられることであります。我が家でもこたつが大活躍する時期でもあります。

 

色が私たちに与える影響はたいへん大きなものです。みなさまは赤色と青色では、どちらがより暖かい印象を受けるでしょうか?だいたいの人は赤色のほうが暖かい印象を受けると思います。

 

こたつに関しても同様です。こたつといえば赤い光を放つもの……そのようなイメージです。青い光を放つこたつを自分はいまだみたことがありません。赤い光のこたつと青い光のこたつが並んでいたら、自分なら間違いなく赤い光のこたつを選ぶことでしょう。

 

ところがここで重大なことがあります。それはこたつが暖かいのは、赤い光のおかげではないのです。それよりもさらに外の波長である、赤外線といわれるもののはたらきによるものなのです。

 

この赤外線は私たちの目では見ることができません。また赤外線はものを暖めることができます。赤外線を利用した家電はこたつ以外にもあります。そのほとんどは事故防止を目的にして、ものを暖めるはたらきとは無関係の、赤い光をわざわざプラスして、いまスイッチがはいっていることを、私たちがわかりやすいようにしているのです。そしていったんこたつのなかに入ってしまえば、赤い光であろうが、青い光であろうが、その色に関係なく、赤外線のはたらきによってこの身体は暖められていくのです。

 

阿弥陀さまとわたしたちの出遇いかたも近いものがあります。阿弥陀さまは本来、色やすがたがない。それ故に頭の中で想像することも、言葉で表現することも出来ない存在です。しかし実際はあるときはお仏壇の真ん中にお立ちになっているすがた……またあるときは私たちが称える南無阿弥陀仏のお念仏、声の仏さまとなって、私たちが認識できるかたちで、私たちと関わりあいをもってくださっています。ただ暖めておわりのお救いではない……お前のところにもう来ているぞ!としっかり告げてくださり、この私の安心となってくださった阿弥陀さまでございました。

 

阿弥陀さまのおかげさま……まことの救いに出遇うことができた……私のほうから出遇えるものではなかった……かたじけないことでございます。


2022年10月21日〜31日 

 

「すべてのいのちあるものは幸せであれ」

 

下松組正立寺 宗本尚瑛

 

皆さんは、「幸せ」と聞くと、どのようなことを想像されますか。贅沢な暮らしができることや、普段通りの生活ができることなど、人それぞれ理想の幸せがあると思います。そんな私たちの幸せとは、「自分の幸せ」や「自分にとって大切な人の幸せ」を願うのではないでしょうか。

 

仏教の開祖であるお釈迦さまは、「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」つまり、「すべてのいのちあるものは幸せであれ」と説かれています。つまり、自分や自分の大切な人だけではなく、自分とはあまり関係のない他者の幸せも説かれています。

 

私たちの他の者とのかかわりを振り返ってみてはどうでしょうか。私たちは、他の人の喜びを「嬉しいね!」と自分のことのように喜ぶことや、「おめでとう!」と心からお祝いすることが簡単ではないと気づかされます。それは、どんなに親しい仲でもいえます。切磋琢磨し、ともに高めあってきた親友やライバルだからこそかもしれません。お釈迦さまの説かれたお言葉は、他者を慈しむ深い愛と同時に、私たちがいかに他の者の幸せを喜ぶことが難しいことだとあらわされています。

 

阿弥陀如来となった法蔵菩薩は、悩み苦しむ私たちを必ず救うと、「すべてのいのちあるものは幸せであれ」という願いを実現されました。その願いは「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、いつでもどこでもどんなときであっても、私たちを救わずにはいられないと、はたらき続けてくださっています。今、この阿弥陀如来さまの願いの中で、日々生活を送らせていただいていることをこのテレホン法話のご縁で喜ばせていただきたいと思います。


2022年10月11日~20日

 

「いたらぬところはさらになし」

 

 宇部小野田組淨円寺 日髙殊恵

 

「一々のはなのなかよりは 三十六百千億に 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし」

 

こちらは親鸞聖人さまがお示しくださいました和讃とよばれますおうたの一首でございます。このご和讃をお聞きしたとき、なんてきれいなおうたなんでしょう。と感動したことを覚えております。

 

お浄土にはさまざまな宝でできた蓮の花が咲いています。それはそれは数えきれないほどの花が咲き、また、数えきれないほどの花びらが光り輝いています。

 

 青い色は青の光、白い色は白の光とそれぞれに光を放ち、玄(黒)・黄・朱(赤)・紫もまたそれぞれの光で輝いています。その光は見たこともないほど鮮やかに輝き、太陽や月よりもなお明るい。この6色の光が相互に照らし合い、6×6=36の光を放ち、それに百千億という数えきれないほどの数字が掛け合わされ、三十六百千億とあらわされておられます。光明とは阿弥陀さまそのもの。阿弥陀さまの智慧、おはたらきのことで、その光明がひかりかがやき、至り届かないところはないのです。

 

ここ数年、私を取り巻く環境はガラリと変化しました。楽しい時間あっという間に過ぎていきますが、悲しい時や辛い時は、早く忘れたい早く逃げ出したいと、もがき苦しんでおりました。自分の考えだけに固執して、周りを見渡すことができなかった私でしたが、自分という暗闇の殻に閉じこもっていた時でも、阿弥陀さまの光明は私を照らし続けてくださっておられました。親鸞聖人さまはこのおうたで「いたらぬところはさらになし」とお示しくださっておられます。

 

つねに私を照らし続けてくださいます阿弥陀さまのおはたらきは、どんな時でも、どんな場所にいても至り届いてくださっておられました。ありがたいことであります。そして本日のこのご縁ありがとうございました。南無阿弥陀仏。


2022年10月1日〜10日 

 

「むなしくすぐるひとぞなき」

 

大津東組明専寺 安部智海

 

私たちは日頃から、多くの言葉に接しています。

 

「おはようございます」と朝目が覚めてから、「おやすみなさい」と夜眠るまでの間に、いったいどれだけの言葉に触れていることでしょう。テレビから流れるニュース番組や、インターネットやスマートフォンから流れる情報は、毎日洪水のように押し寄せてきます。一説によると現代社会に生きる私たちが、一日のうちに晒される情報の量は、江戸時代に生きる人の一年分、平安時代に生きる人の一生分とも言われています。それだけの情報量のなかを生きていながら、さて、私たちは江戸時代に生きる人たちや、平安時代に生きる人たちよりも豊かな人生を歩めているのでしょうか。どれだけ多くの情報を持っていても、むしろそれだからこそ、私たちの人生は忙しく、空しく過ぎていっているのではないでしょうか。抱えきれないほどの情報の海のなかで、本当に自分にとって必要な情報は、いったいどれだけあるのでしょう。私のことを本当に慈しんでくれる情報、私とともに悲しんでくれる言葉は、いったいどれだけあるのでしょうか。

 

親鸞聖人は、「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」とおっしゃいました。私のことを心底ご心配してくださる阿弥陀様のそのお心に触れたならば、この人生は決して無駄な人生なんかじゃあないぞという意味です。私の人生は、ただ不平不満をこぼしながらただ生まれ、ただ死んでいくだけの人生ではない。阿弥陀さまのご本願に出遇うため、「南無阿弥陀仏」ひとつに出遇うため、どれだけのお手間と、どれだけの時間のかかったことでしょう。「私の人生は、このためにありました」と言えるような、そのような出遇いが用意されていたのです。

 

いまここに届いてくださる「南無阿弥陀仏」というたったひとつのお念仏のなかに、私のことを本当に心配してくださる仏様のお心を聞いてゆく、その仏さまのお言葉に支えられ、導かれてゆくことのできる人生を、私たち念仏者は賜っているのではないでしょうか。


2022年9月21日〜30日

 

「わたしの行く先」

 

美祢西組西音寺 川越広慈

 

9月10日は中秋の名月でした。今年は運よく満月の日と重なり、綺麗な満月を見ることができました。「中秋の名月」とは、太陰太陽暦・旧暦の8月15日の夜に見える月のことを指します。秋の夜空に浮かぶ、美しい月を眺める「お月見」の習慣は、平安時代に中国から伝わったそうです。

 

この平安時代に、今も『かぐや姫』として親しまれている日本最古の物語、『竹取物語』が誕生しました。この物語のあらすじは、おじいさんが、光り輝く竹の中から小さな女の子を発見します。かぐや姫と名付けられた女の子は大切に育てられました。大変美しい姫に成長したかぐや姫には、時の権力者達がこぞって、求愛をします。しかし、かぐや姫は大変難しい難題を突き付け、断ります。そして、旧暦の8月15日に、中秋の名月が輝く中、月へと帰っていったのでした。

 

かぐや姫は自らの行く先が月と決まっていました。しかし、私はどうでしょうか。私の行く先はどこでしょうか。これから迎える秋のお彼岸のご縁は、季節の変わり目のお彼岸に、真西に沈む太陽の先に阿弥陀さまのお浄土を想い、此岸から彼岸へいたるとういことを想うご縁です。お浄土とは阿弥陀仏が願いを持って建立された私たちのいのちの行く先です。そのお浄土からのはたらきかけが「南無阿弥陀仏」というお念仏となり、この私を照らし、はたらきかけてくださっているのです。


2022年9月1日〜10日

 

「いのちのバトン」

 

下松組教應寺 内山晴香

 

数年前、私が28歳の時に、父方の祖父母の33回忌を親戚と共にお勤めいたしました。

 

祖父母は私が生まれる前にご往生しており、私は一度も父方の祖父母には会ったことがありません。ですが、ご法事で親戚が集まる度に、生前の祖父母のことを知っている方々から、祖父母がどんな人柄だったのか、どんなことを頑張っていたのか、聞くことがとても楽しみでした。

 

私のこんなところは、きっとおじいちゃんに似ているのかもねと親戚とそんな会話が弾みました。ご法事のご縁を通していろんな思い出話を聞く中で、私は自分の祖父母をより身近に感じるようになりました。そんな中で、私は相田みつをさんの『自分の番いのちのバトン』という詩に出会いました。

 

父と母で二人 父と母の両親で四人 そのまた両親で八人

こうしてかぞえてゆくと 十代前で千二十四人 二十代前ではー?

なんと百万人を越すんです

 

過去無量の いのちのバトンを受け継いで

いまここに 自分の番を生きている

それが あなたのいのちです それが わたしのいのちです

 

この詩を見た時に、「ああ、自分の“いのち”って、お父さん・お母さんだけでなく、おじいちゃん・おばあちゃん、そのまたおじいちゃん・おばあちゃん…とたくさんの先立たれた方々と繋がっているんだな」と思いました。自分のいのちが、何だか一人で生きているいのちではない気がして、とても心強く温かい気持ちになりました。

 

ご命日というのは、この世でのいのちを終えた日であると同時に、先立たれた方々が、お浄土に生まれ仏様となられたお誕生日でもあります。そんな大切な日に、ご家族と先立たれた方々との思い出を振り返ったり、お子さんやお孫さんにもぜひ自分たちのご先祖さまや大切な方々のお話をしていただければと思います。自分に与えられた「いのちのバトン」に感謝するとともに「いつもいつもありがとう」と、そんな気持ちで手を合わせてお念仏させていただきたいと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


2022年8月21日〜31日

 

「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず」

 

宇部小野田組浄念寺 吉見勝道

 

親鸞聖人が七高僧の一人と仰がれた中国の曇鸞大師という方がいらっしゃいます。その曇鸞大師のお書物に「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」という言葉があります。蟪蛄(けいこ)とは、夏の季節に鳴いているセミのことです。「夏の間に生まれ、夏の間に死んでいくセミは春や秋、冬という他の季節を知らない、つまりは今が夏ということも知らないのである」という意味です。

 

私たちは自分が「生まれた」時のことは定かではないし、「死ぬ」ことは生きているうちに経験できるものではありません。ならば、本当の意味で「生まれること」と「死んでいくこと」、更には「生きていること」もあんまりよくわかっていないのかもしれません。

 

わからなかったらどうするか。知っている人に聞いていく、たずねていくのです。お釈迦さまが私たちに教えて下さいました。

 

「あなたは迷いのいのちを生まれ変わり死に変わり、繰り返してきて、たまたま人間として生まれてきたんだよ。そのあなたをずっと喚び続けてくださる方がいらっしゃったよ。阿弥陀さまという仏さまだ。あなたのいのちは、ただむなしく終わっていくだけのいのちじゃないんだ。お浄土に生まれて仏さまに成るいのちを今生きているんだよ。阿弥陀さまが声の仏さまと成って、いつも今のあなたとご一緒ですよ。」

 

お釈迦さまだけじゃありません。親鸞聖人が蓮如上人が、私たちのご先祖さま方、お念仏の先輩方が私のために伝えて下さったのです。お寺の本堂、お家のお仏壇の前に座る度、このことを聞かせていただくのです。

 

「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず」この言葉は元々は荘子の言葉だそうですが、曇鸞大師も親鸞聖人も「お念仏の数を問わない」という意味で引用されています。まだまだ続きそうな夏の暑い日々、一生懸命に鳴くセミの声が私たちにひたすらにお念仏を勧めて下さっているのかもしれません。共々に、お念仏申しましょう。南無阿弥陀仏。


2022年8月11日〜20日

 

「信心と宿業」

 

下松組光圓寺 石田敬信

 

今年になって、初めて友人が亡くなるという経験をしました。

お坊さんの友人でした。自死でした。とても悲しいご縁でした。

真面目で、おみのりを喜んでいました。私もたくさんのことを教えていただきました。

勉強会に誘いあったりして、御法義話ができる尊い法友でした。

ですが自死は、残された人も傷つけていきます。あの時ああしていれば良かった、もっと突っ込んで話をすればよかったと思います。

 

阿弥陀様がご一緒してくださっていることをいただいていてどうして、と思いましたが、ご縁は人それぞれということを、今一度聴かせていただきます。

 

死のご縁はいつくるかは分かりませんが、先にお浄土をご用意くだっている阿弥陀様です。自死を肯定しない私と違って、死にざまを問わず救ってくださるのが阿弥陀様です。

 

いま悲しんでいる私に、大丈夫あなたを必ず救うとはたらいてくださっているのが阿弥陀様です。ありがたいことだとあらためて聞かせていただくご縁でありました。

 

友人とまた会える世界がひらかれていること、そのおはたらきに包まれていることをありがたく思います。南無阿弥陀仏


2022年8月1日〜10日

 

熊毛組光照寺 松浦成秀

 

明治時代に活躍された、七里恒順和上がお示しの「聴聞の心得」の一節に「このたびのご縁は今生最期と思うべし」とあります。私たちは諸行無常のあらゆるものが移り変わっていく世間のなかで、いつ尽きるかわからない命をいただいています。ですから、このたびの聴聞を人生最後のご縁として、御信心をいただいてない人は早く御信心をいただいてください。人生の目的を、後生の一大事の解決をしてください。そして御信心をいただかれた方は阿弥陀様の御慈悲をよろこばさせていただきましょう。そんな思いを、七里和上はこの言葉に込められたようにいただきます。

 

今、メディアにもたくさん出演されております講談師さんで、神田伯山さんという方がいらっしゃいます。その神田伯山さん一浪されて、大学合格が決まった後に原因不明の体調不良に襲われました。大きな病院で精密検査を受けた後、検査結果が出るまで自宅で療養してくださいと促されます。不安の中で家路を歩む中で「俺はこのまま死んでしまうのだろうか。」と暗鬱たる気持ちに包まれます。どうせ死ぬのなら最後に大好きな話芸を高座を聞きに行こうと、新宿末広亭という寄席で落語を聞きにいきました。人生最後と思ったら何気ない小話もおなかを抱えて笑うように面白く、人情噺も涙が止まらないほど、感動をもってきくことができました。それから数日後、検査の結果が出ます。お医者さんが「いろいろ検査したけど、特に悪いところはないですよ。受験の疲れが出たんでしょう」と診断結果をだされました。

 

その帰り道、再び寄席に行きます。1週間前とまったく同じ演者が全く同じ話をされていました。しかし、全然おもしろくないし、涙の一つも流れない。ああそうか、聞き手の立場によっておかれた状況によってこれほどまでに聞こえ方が変わってくるのだなぁとしみじみと感じられたそうです。

 

今のお話から学ばせていただくならば、私たち凡夫の心は状況によって、ころころころころ変わっていきます。その心の状態によって、仏様のお話をはねつけたり、評価したりする心も持ち合わせているのかもしれません。人生が順風満帆な時は喜べて、不遇な時期は喜べないというような信心は浄土真宗の如来様回向の信心とは言えません。阿弥陀様が届けてくださった他力の御信心は金剛不壊の大信心です。なにものにも壊されることのない信心です。人生のいかなる時もよろこんでいける御信心をいま私たちは頂戴させていただけるのです。


2022年7月11日〜20日

 

「たまたま」

 

邦西組照蓮寺 岡村遵賢

 

たまたま人間に生まれました。たまたま育ったこの場所。たまたま通った学校で、たまたま出会った友達。努力が実らないこともあれば、失敗が良い方向に行くこともあります。たまたま今日まで続いているこの人生。もし「必ず」と言えることが一つでもあるのなら、「必ず死ぬ」ということくらいでしょうか。しかし、その時期も、その様も、自分の思い通りにはなりません。

 

親鸞聖人は、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」とおっしゃいました。我々が遇いがたきお念仏の法に出遇ったということも、また「たまたま」であったというのです。言い換えれば、自分の力ではなかったということです。「遠く宿縁を慶べ」とは、仏法に出遇ったのも、お念仏申す身になったのも、阿弥陀様が結んでくださったご縁であった、という事です。遠い遠い昔からの「必ず救う。必ずあなたを浄土の仏とする」という阿弥陀様のはたらきが無ければ、とてもとてもお念仏を口にかけるような身ではなかったと、その御恩を慶ばれているのです。

 

お念仏申す姿は、阿弥陀様の願いを聞き受けた姿です。今日までの日々は、ただ過ぎ去っただけではなく、その人生をむなしく過ぎさせはしないという、切なる願いがかけられた日々でありました。必ず死ぬべきはずの私が、阿弥陀様に連れられて、必ず浄土に生まれゆく身と聞いたのです。

 

親鸞聖人はいよいよ晩年、お弟子に宛てたお手紙の中で、「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」とおっしゃっています。一瞬先にもなにが起こるかわからないこの娑婆世界において、何が起ころうとも、必ず浄土に参ると言える人生。自分が決めたのではありません。阿弥陀様がその智慧と慈悲をもって「必ず」とおっしゃってくださったのです。

 

「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」。お念仏は、今すでに弥陀というまことの親に抱きとられたよろこびです。


2022年7月1日〜10日

 

「必ず」

 

防府組明照寺 重枝真紹

 

七月となり、今年も半年が過ぎました。

 

そして、私が存じあげなかっただけで、大病を患っておられたや、ほんと突然にと、今年もお世話になった方々との別れがありました。

 

人は生まれた限り、必ず死を迎える。頭ではわかっていたつもりでも、現実を突きつけられますと、何とも言葉に表しようがない想いが私の心をめぐります。

 

時に、「死んだら終わり。死んだら何もかも無くなる。」と仰る方がおられますが、その方には、その言葉の先に、自分の名前や親しき方の名をちゃんと主語にして、仰っていただきたいと、私はつねづね思います。「死んだら終わり。死んだら何もかも無くなる。」とは、死をどこか遠くの他人事としているから言えるのであって、「私、〇〇は死んだら終わり。私、〇〇は死んだら何もかも無くなる。」と、身近な私事とした時に、これほどむなしく寂しい言葉はありません。

 

私たちは、生まれた限り、必ず死を迎えねばなりません。ですが、阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏「必ず浄土に生まれさせ、必ず仏にならせる。我にまかせよ、必ず救う。」と、私たちのいのちのうえに至り届いてくださっています。私たちは、今、死の先の必ずをお聞かせいただき、死んで終わりでない人生をいただいているのです。今を安心して生きて欲しいという願いが、私たちに向けられているのです。

 

恋しくば 南無阿弥陀仏を称うべし

我も六字の うちにこそ住め

 

お念仏をお聞かせいただいたからといって、寂しさや何とも言葉に表しようがない想いが無くなるわけではありません。ですが、お念仏をお聞かせいただくことで、別れではあってもさよならではない世界を生かさせていただけるのです。思いがけないこと、思い通りにならないこと多々ございますが、お念仏をよりどころに、今生の縁尽きる時まで、精一杯生き抜かせていただきましょう。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


2022年6月21日〜30日

 

「長き夜に」

 

美和組超専寺 田坂亜紀子

 

人は、独り生まれ、独り死んでゆく、誰にも代わってもらうことのできない人生を引き受けて生きていかなければなりません。人生の中で苦しみや悲しみが深い時ほど、私たちは孤独を強く感じるのではないでしょうか。

 

一昨年、私の祖母の33回忌の法事のことでした。母が、生前に祖母が詠んだ詩を見せてくれました。その中にこんな詩が。

 

「長き夜に 正信偈くりかえし いただきぬ くりかえすうち 眠りに落ちぬ」

 

祖母は、私が物心つく頃には、病院の入退院を繰り返し、ほとんど寝たきりの状態でした。

 

「長き夜」……。病気の息苦しさで寝付けない夜があったことでしょう。また、今晩瞼を閉じてしまったなら、もう二度と目を開けることはないかもしれないと、不安で眠れない夜があったかもしれません。

 

その夜の間中、付き添ってくれる者はいません。まして、誰も代わってくれる者などいません。大切な家族であっても、です。皆、それぞれの都合を生きているのです。

 

でもそんな長き夜に、祖母は正信偈をくり返しおつとめしていたのでした。正信偈とは、浄土真宗を開かれた親鸞聖人がお書きくださった詩です。漢文で七文字ずつ丁寧に紡がれた言葉に後の時代に節がつけられ、私たちの五感に親しみやすい形になっています。浄土真宗の歴史の中で、朝な夕なにうたわれてきたので、浄土真宗のご家庭の方にとっては、「帰命無量寿如来 南無不可思議光……」と聞こえると、テレビやラジオで懐メロが流れる時と似たような感覚をおぼえる方もおられるかもしれません。

 

正信偈には、独りぼっちの苦悩を生きる私たちを抱いて離さないという、阿弥陀さまに「救いとられたお約束」が著されています。その正信偈を、祖母は布団の中でくり返しくり返し口にかけているうちに、いつの間にやら眠りに落ちて、気がついたら朝だった、というのです。独りぼっちの長い夜が、そのまま阿弥陀さまに抱かれぬくもりと安らぎに包まれた夜だったのでした。

 

祖母に限った話ではなく、私も、今お聞きくださっているあなたも、それぞれの「長き夜」を生きています。その中にこそ響いてくる詩があります。独りぼっち同士がうたってきた詩は、私たち独りひとりの人生に今、寄り添ってくださいます。


2022年6月11日〜20日

 

「生死の苦海ほとりなし」

 

厚狭西組善教寺 寺田弘信

 

私たちがすむ地球は、水の惑星と表現されることがあります。その水の大半は海にあります。海はその深さによって、いくつかの層に区分されています。海面に近いほうから表層・中深層・漸深層・深海層・超深海層となっています。なぜ海は青く見えるのかいいますと、赤い光は青い光より多く水に吸収されてしまうためです。その結果、海は青く見えるのです。しかし海が青く見えるのも、まだ海面に近いうちだけです。だんだん水深が深くなるにつれ、私たちが見慣れている青色の世界から灰色の世界…そして深海といわれるところでは、光が全く届かない暗黒の世界になります。

 

もし私たち人間がそのような場所に行くとどうなるでしょうか?自身の力だけで、まわりの世界がどうなっているのか、また自分の姿すら確認することは出来ないのです。

 

そんな暗黒の世界が当たり前であると思っている私たち…はじめがどこかもわからない頃から今の今まで、ずっと海の底に沈みっぱなしであった私たち…ただの一度も浮かび上がることのなかった私たち…そんないのちを繰り返し、そのことにも気付いていないことこそ、迷いのいのち、迷いのすがたというのです。

 

しかし阿弥陀さまのはたらきによって、私たちはその光にやさしく照らされて、私たちのいのちの有り様・私たちのいまを知らされることになるのです。阿弥陀さまに掬いあげられて、もう海の底に戻される心配のない、確かな救いに出遇っていたのだと知らされていくばかりです。わたしが抱えている煩悩がどれだけ大きくても問題なく救ってくださる阿弥陀さま…わたしを凡夫のまんま救うと仰せの阿弥陀さま…わたしを必ずお浄土に生まれさせ、ほとけに仕上げてみせるとはたらきずくめの阿弥陀さまでございました。南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…


2022年6月1日〜10日

 

「『正しさ』という落とし穴」

 

宇部小野田組西秀寺 黒瀬英世

 

最近のニュースでは、コロナに関する情報はめっきりと減り、その代わりにロシアのウクライナ侵攻に関するニュースが世間を騒がせています。

 

どうして戦争は起こるのでしょうか。物語などでは大抵「正義」と「悪」という構図が示され、「悪」を正すために正義が立ち上がり、争いが起こります。そして最後は「正義」が勝ち、めでたしめでたし。果たして現実でもそのような単純な構図で戦争が起こっているのでしょうか。

 

仏教には、「四諦八正道」という教えがあり、悟りを得るための八つの実践法が説かれています。その中の一つに「正見」という項目があります。「正見」とは正しい見解のことであり、他七つの実践を支える最も大切な項目です。

 

それでは仏教が語る「正しさ」とは何でしょうか。それは「中道」のことです。「中道」とは、両極端にかたよらない道のことです。私たちのものの見方とは往々にしてかたよってしまいがちです。

 

この度のウクライナへの軍事侵攻も、マスメディアの報道ではウクライナが「正義」ロシアが「悪」という構図が成立し、私たちはウクライナを擁護し、ロシアを非難しています。この場での私の政治的な発言は避けますが、ウクライナにはウクライナの正義があり、ロシアにはロシアの正義があるはずです。(それが倫理的に正しいかどうかは別として)ですから、争いごとの根っこには両者の「正しさ」があり、「正しさ」と「正しさ」がぶつかることによって争いごとが生れるわけです。

 

仏教においては、この「私が正しい」というものの見方を「正見」の反対である「邪見(じゃけん)」という言葉で表現します。「邪見」とは「私が正しい。相手が間違っている。」という私たちのかたよったものの見方です。

 

自分の見方が「邪見」であると知るためには、「正見」に照らされる以外に道はありません。「正見」に照らされるとは、言い換えれば仏教のお話を聞くということです。聴聞によって私たちの邪見が照らされ、自らが「邪」であったと気付かされるのです。

 

忙しい日常の中で社会生活を営んでいくには、かたよらずにはいられない時もあると思います。そんな日常の中で、時には足を止めて、自分自身のすがたを仏教(正見)によって照らされ、自らの邪見を省みていく。浄土真宗の道とはつねにこの繰り返しなのではないでしょうか。


2022年5月11日〜20日

 

「泥から悟りの蓮ひらく」

 

白滝組專修寺 高橋 了

 

仏教では、蓮をとても大切にします。阿弥陀さまのお姿を拝見すると蓮の台座の上にお立ちです。なぜならば、蓮という植物が泥の中に根を置き、泥水の中を通って生長しながらも、咲く花はまったく泥に染まらず美しいからです。その姿からは、さまざまな悩みや悲しみを抱えた我が身から、声の仏様となってお念仏がこぼれ出てくださることに通ずるものがあります。

 

先月とあるお寺さんと蓮の株分けをしました。私は初めての経験でした。昨年の睡蓮鉢をひっくり返すと、 睡蓮鉢の形に沿って伸びた蓮の根っこ、蓮根が出てきました。まずは、その根に付いている泥を洗い落とします。そしていくつかに株を分けていきます。 次に今年植える蓮の泥の準備です。田んぼの土と赤玉土に水を加えながらこねていきます。この作業、思っていた以上に体力が要ります。昼から夕方までひたすら泥を洗い落としては、また泥をこねる作業を淡々と繰り返し、気づいた時には私も泥まみれでした。

 

仏教では、この世を「五濁悪世」といい、さまざまに濁った世界であると示されています。私たちは、常識や価値観が変わり続ける中で、本当のことが見えずに、さまざまな悩みや悲しみを抱えながら生きています。蓮の姿を見ていると、決して清く美しい我が身ではなく、まさに泥まみれであった私の姿に気づかされます。

 

私の好きな歌があります。「泥沼の泥に染まらぬ蓮の花」。

 

濁りに満ちたこの世の中、泥のようなものを抱えているこの私に「南無阿弥陀仏」と至り届き「あなたを必ず救う」と悟りの世界へ導いてくださっています。仏法を語り合いながらの蓮の株分けは、心地よい疲労とともにお念仏の道をすすめてくださる尊いご縁でありました。


2022年4月21日〜30日

 

「一子地」

 

美祢西組正隆寺 波佐間正弘

 

寒かった冬が終わり、温かい春の風を感じる季節になりました。

 

私は僧侶であると同時に、保育士として日々保育園に勤めています。

 

4月になり年度が変わり、先日、入園・進級式を行いました。3月末には卒園式で子どもたちを送り出し、そのすぐ後に新しい子どもたちを迎えます。

 

初めての保育園に緊張や不安を抱え、保護者の方としっかり手をつなぎながら歩いてくる子どもに「だいじょうぶよ。だいじょうぶよ。」と声をかける保護者との様子を見ると毎年ついつい笑顔になります。勇気を振り絞って保育園のドアを開け、入ってきた子どもに「よくきたね。待ってたよ。」と職員一同笑顔で迎えます。

 

入園にあたり子どもについての話を聞く保護者の顔は真剣です。そして我が子を見る目はとても優しい目をされています。子どもは寄り添ってくれる親の心に包まれて大きくなります。入園式では毎年「子どもたちを仏の子として大切にお預かりさせていただきます。」という挨拶をします。

 

お経様の中に「一子地」というお言葉があります。阿弥陀様のお慈悲を表すお言葉です。

 

阿弥陀様は私のことをたった一人の我が子であると願ってくださいました。それはつまり私の親になると誓ってくださったということです。

 

私のために願いを起こし、私のためにご苦労くださり、私のために南無阿弥陀仏と仕上げてくださり、今まさに私に寄り添い続けてくださいます。阿弥陀様の願いは全て私のためでありました。

 

親が子を思うように、私のことを真剣に考え、大切に思い、「だいじょうぶ。だいじょうぶ。」と寄り添い続けてくださるのが阿弥陀様であります。阿弥陀様のお心に包まれた私はまさに仏の子であります。阿弥陀様のお心に包まれ、阿弥陀様とご一緒に、一歩一歩お浄土参りの人生を歩ませていただきたいと思います。

 

阿弥陀様が私を我が一人子と願ってくださったように、子どもたちひとりひとりに寄り添っていきたいと改めて思うご縁でありました。


2022年4月1日〜10日

 

「仏様の見方」

 

宇部小野田組法泉寺 中山教昭

 

先日、あるお寺の掲示板にこんな言葉が載っていました。「散ると見たのは凡夫の眼 木の葉は大地に還るなり」

 

葉っぱが木の枝から離れて落ちていくのを見ると「散る」という見方をするのが私たちの見方、終わりをイメージするのが私たち人間の見方でありますが、仏様はそうじゃないと仰ったんです。散るんじゃないよ、大地に還っていくんですよ。これが仏様の見方でありました。この言葉は葉っぱについて書かれた言葉でありますが、人間のいのちでも同じことが言えるようであります。人間のいのちの終わりと聞くと「死」をイメージするのが私たち人間の見方でありますが、仏様はそうじゃないと仰ったんです。死ぬんじゃないよ、還っていく世界があるんですよ、生まれる世界があるんですよ、お浄土という世界があるんですよ。これが仏様の見方でありました。

 

先日、ある布教使の先生が仰っておられたんですが、お寺では死ぬ話をすることが多い、死ぬ話を聞くことが多い。けど、そういう話を安心して聞けるのがお寺なんだと仰っていました。そういう話を安心して聞けるのはお寺だけなんだと仰っていました。死ぬ話を聞く機会ってそんなに多くはないと思うんです。それにできることなら聞きたくないし、きっとこれまで避けてきたことと思うんです。今後もずっと避け続けていくと思うんです。けど、そういう話を安心して聞けるのがお寺であり、そういう話を安心して聞ける場が身近なところにあるということを知っていただけたらと思います。


2022年3月21日〜31日

 

美祢西組西音寺 川越広慈

 

あっという間に暖かくなり春爛漫といった季節になりました。卒業・入学のおめでたいシーズンであり、新生活への期待に胸をふくらませる季節です。しかし、人によっては花粉が飛び始めるこの季節が、一年で一番つらい季節と感じられるかもしれません。幸いなことに私はいままで花粉症とは無縁の日々を過ごしてまいりましたので、いまや当たり前の光景となったマスクをする習慣がありませんでした。しかし、新型コロナウイルスの蔓延によって、2年もマスクをして生活していると、さすがに慣れるものです。気づくと、マスクをする生活が当たり前になっていました。マスクをしないことが当たり前、そんな常識は環境によってあっという間に変化し、マスクをすることが当たり前となってしまいました。人はそれぞれに自らの当たり前を作って、それが正しいと思い込んでいくのではないのでしょうか。

 

無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな

生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ(高僧和讃)

 

私たちが自らの常識が正しいと思い込んでいる姿、それは煩悩によって眼をさえぎられた私の姿ではないでしょうか。そんな私に向けられているのが阿弥陀如来の本願であり、煩悩によって迷う私を照らしてくださる灯火である。常に私を照らし、導いて下さる大いなる光明であると、親鸞聖人は味わっていかれたのです。


2022年3月11日〜20日

 

「如来さまの限りないお救い」

 

下松組正立寺 宗本尚瑛

 

みなさんは、「アンマー」という言葉をご存知ですか。私がこの言葉を知ったきっかけは、母校の文化祭でかりゆし58というバンドのライブに参加したのがきっかけでした。かりゆし58の歌では、今まで迷惑をかけた母への感謝の気持ちと、母のどんなときも優しく、我が子を見捨てずにはいられない親心が歌われていた心温まる一曲がありました。この歌の名前が「アンマー」でした。「アンマー」とは、沖縄の方言で「母」という意味です。

 

私は、今年で28歳になります。自立ができているようで、未だに母に支えられることや、助けられることもございます。私たちは、誰かに支えられることで、安心して日々を過ごすことができるのではないでしょうか。

 

阿弥陀如来さまは、私たちがいつ、どこで、何をしているときも、我が子のように私たち一人一人を救わずにはいられないとはたらきかけてくださっています。そして、如来さまは、私たちの寿命のように、限られたものではく、常に必ず救うと、私たち一人一人に「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、はたらきかけてくださっています。如来さまのおはたらきに出遇わせていただいた私たちは、これからの人生にどんなことがあっても、たとえ、この世でいのちを終えるということがあってももう何の心配もする必要はございません。

 

皆様にも、如来さまのおはたらき、もうすでに「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、いたり届いてくださっています。私たち一人一人に届いてくださっています、この如来さまの限りないお救いをご一緒に喜ばせていただきたいと思います。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。


2022年3月1日〜10日

 

「念仏は無碍の一道」

 

大津東組明専寺 安部智海

 

江戸時代、曹洞宗のお坊さまで良寛さんという方がいらっしゃいました。

 

この方が、71歳の頃、新潟でたいへん大きな地震が起こったそうです。その地震の被害に遭われた方へのお見舞いのお手紙のなかに、災難を逃れるよい方法として、こんなお言葉を残されておられます。

 

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

 

(中略)

 

これはこれ災難をのがるる妙法にて候

 

災難に逢うときは災難に逢うことが、もっともよい方法だと言われるのです。

 

もし災難に逢ったとき、あとになってから「あの災難さえなければ」、「もっとこうしておれば」と、あれこれ思い煩って、いたずらに苦しみを深めるよりも、災難を受け入れて生きてゆくことができれば、それがもっとも災難から逃れられる一番の方法ですよ、という意味になるでしょうか。

 

良寛さんのように、災難を受け入れて生きてゆくことができれば、どれだけいいだろうと思いますが、私の身に引き当てたとき、果たして、災難を引き受けて生きることなどできるだろうかと、ふと立ち止まってしまいます。もちろん災難はないほうがいいに決まっていますし、自分にとって得にならないことはできるだけやりたくない。そういう思いで一日一日を生きているのが私のいつわらざる姿です。

 

そういう者の心のなかに、仏法を求めよう、お悟りを求めようなどという心は起きようはずもありません。その私がいまお念仏を口に称えることができるのは、進んで仏法を求めることもせず、我が身を中心にしてでしか物事を見られず、その結果、悩み苦しんでいる私を「哀れ」とご覧になって、立ち上がってくださった阿弥陀様がいらっしゃったからです。

 

悟りを求めない私のために、仏のほうから悟りのすべてを南無阿弥陀仏に込めて届けようとはたらいてくださった方がいらっしゃるのです。

 

どんな疫病、戦乱のなかにあっても、決して碍げられることなく私に届いていてくださるお念仏がありました。決して逃れることのできない私の生老病死の苦しみとともに、いつも離れず親様がご一緒してくださいます。

 

お念仏そのものが私のたった一つの歩む道となって届いていてくださっているのでした。


2022年2月21日〜28日

 

「お念仏は人生の復原力」

 

華松組安楽寺 金安一樹

 

昨年、ある結婚式に参列したときに、ご挨拶くださった方の言葉がとても印象的でした。

 

始めに「船を造るときにもっとも大切な技術はなにかご存知ですか?」と質問されたのです。皆さんはご存知ですか?私も周りの友人も分からず、その答えを待っていると、「それは復原力です」と教えてくださいました。

 

復原力とは、船が強風や大きな波などによって傾いたとき、転覆せずに持ちこたえ、元の安定した姿勢に戻すはたらきのことで、この復原力が高い船ほど、激しく傾いた状態からでも元の姿勢に戻れるバランスの良い船と言うそうです。

 

続けて「夫婦生活にもこの復原力が大切だと思うのです。」と仰るのです。「今日のお2人は仲睦まじく、お互いのことを思い合い、これから歩みを進めて行こうと幸せに満ちた心持ちと思います。しかし、夫婦生活そんなに甘くはありません!!!どうして私だけがこんな思いをしなければならないの、どうして私のことを分かってくれないのと、お互いのことを思い合えず、関係性が悪化し、2人の船が大きく傾くときもあることでしょう。そんな時は、今日この日を思い返(“復”)し、お互いのことを思い合うことの大切さを改めて確認する。そんな“原”点となる日が、今日であるということをどうか忘れないでください。」と、お話しくださいました。2人に本当に大切なことを伝えつつ、心温まるご挨拶に感動しました。

 

これはこの夫婦に限った大切なことではないと感じました。私も人生という大海原を渡っていく中で、世間の風潮に流され、思いもよらない波乱に満ちた出来事も起こってきます。自分の思い通りに事が進むと、たくさんの方々に支えられていることを忘れ、自分中心に世界が回っていると傲慢になり、そうかと思えば、思い通りにいかなくなると、自分の存在意義を見失い、自己を卑下することさえあるバランスの崩しやすい心の持ち主が私です。

 

そんな私の心を知り抜いて下さった阿弥陀さまだからこそ、どんなに傾いても支え続け、護り続け、バランスのとれた心の状態を恵み与えたいと、お念仏となって私にはたらき続けてくださっているのだなと気づかされた尊いご縁でした。


2022年1月21日〜31日

 

「おかげさま」

 

下松組光圓寺 石田敬信

 

祖母が往生してから一年が過ぎました。七年前から身体が弱り、施設でお世話になっていました。九十五歳でした。私が山口県に戻ってきた三年前は面会もできましたが、コロナ禍になってからは会えなくなっていきました。食べることが大好きな祖母でしたが、最期は食べることも難しくなりさらに弱っていき往生しました。

 

家に帰りたかったかな、好きなものをもっと食べたかったかな、とコロナ禍でしてあげられなかったことを少し悔みました。

 

小さい頃からかわいがってくれて、お念仏を教えてくれたのも祖母でした。思春期はよく喧嘩もしました。我が強く子どものようなところもあった祖母でしたが、お通夜の日に昔もらった手紙が出てきました。

 

「お寺に生まれ佛様のおかげ親のおかげ世間のおかげで大きくここまで育つことができたのですよ。これからは自分をもっとみがき世間の為になるように力をつくしていきましょう、体に気をつけながらにね」という内容でした。平成十七年三月と書いてあったので、私が県外の大学に行く前にくれた手紙でした。

 

この当時は読み流していたのでしょう。今読むととても大切な、自分では気づきにくいおかげさまのことが記されていました。祖母が往生してからも私に、御恩報謝につとめなさいと教えてくれているように感じました。

 

最期まで、食べることが好きで我が強くて孫と喧嘩する祖母でしたが、私にお念仏と御蔭様の大切さを教えてくれました。

 

いのち尽きるまで煩悩が消えないのは私もそうなのでしょう。阿弥陀様が、変わることができない私をそのまま包み仏さまにしてくださるということを、有り難いもったいないことだと聴かせていただきながら、お念仏申し、周りのためにできることをさせていただこうと、改めて祖母に教えてもらったご縁でした。