山口教区の青年布教使による3分の法話が聞けます。10日毎に法話は変わります。
2018年12月21日〜31日
「除夜の鐘」
華松組西光寺 佐々木世雄
年の暮れに差し掛かり、今年もあと数日を残すことになりました。12月31日は大晦日。お寺では「除夜の鐘」を鳴らします。真夜中に梵鐘の音が響き渡るのは一年を通してもこの日だけ。一体「除夜の鐘」にはどのような意味があるのでしょうか。
除夜とは「除日の夜」という意味で大晦日の夜を指します。「除」という漢字は古いものを捨て去り、新しいものを受け入れるということで、大晦日は旧年を除いて真っさらな心で新年を迎える日なのです。また鐘を108つ撞くのは、それだけの煩悩を取り除くということですが、100も8も満数を表し実際には数え切れないほどの煩悩を108という数字で示していると言えましょう。
しかし、すでに過ぎ去りし過去に心をとらわれ、未だに訪れていない未来に不安をつのらせる。これが本来の私の姿ではないでしょうか。旧年に思いを縛られたまま、鐘を撞いたからといって煩悩はなくなりません。108回撞くだけでは到底ぬぐいきれない程の闇を私は持ち合わせているのです。
「罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし」
親鸞聖人の著された「高僧和讃」の一首です。罪障とは煩悩のことで、氷が水に変わるが如く、如来様のはたらきによって煩悩が功徳へと転じられていくことを顕されています。闇を闇と知らされて、打ち破っていくのは光のはたらきです。私の姿に渦巻く煩悩の闇そのものが如来様のお慈悲の現場なのです。
「ゴーン」と鳴り響く除夜の鐘。煩悩を消し去る装置ではなく、自身の煩悩を知らされる如来様のお慈悲の音色と味わってはいかがでしょうか。そのような味わいの中で、「ゴーン、ゴーン」という鐘の音を「ご恩ご恩」御恩報謝と受け止めた方がいると聞かせていただいたことがあります。「除夜の鐘」皆様はどのように聞こえますか?
2018年12月11日〜20日
「サラメシ」
防府組万巧寺 石丸涼道
私は結婚しておりまして、今二人息子もおります。上の子が5歳、下の子が2歳。ですから、朝見るテレビ番組というのは決まっております。7時半からピタゴラスイッチミニ、コレナンデショウカイ、みぃつけた、おかあさんといっしょ、いないいないばぁ。ですから、朝の時間というのは子どもにテレビが占領されております。
しかし、この間、お説教のご縁を賜った際に、お寺さまが宿を御用意下さりました。そうしましたら、朝久しぶりにNHK教育以外のテレビを拝見しました。その時、放送していたのが「中井貴一のサラメシ」という番組でした。私はこの番組のことをよく存じ上げないのですが、どうやら昼ご飯などを通して色々由来を尋ねていく番組だそうです。
そのとき出ておられたのは、ある消防士の方のお母様でした。その方は、朝息子さんに毎日おにぎりを握って、昼ご飯に持たせているそうで、「息子が昼ご飯を食べている姿を見たい」と仰います。そのため、お母様は職場まで行って、別室で息子さんの昼ご飯を召し上がる姿をご覧になっておられます。
昼ご飯の時間になると、その息子さんがおにぎりを食べ始めるのですが、それがゆっくりゆっくりおにぎりを食べるんです。消防隊員というのは緊急出動というのがあるそうで、普通はパパっと食べるそうです。ですから、職場の先輩も「あいつは良い度胸だ」などと仰っておられます。そこで、取材班の方が息子さんにインタビューされます。
「なんでそんなにゆっくり召し上がるんですか?」
「このおにぎりは、お母さんが朝早く起きて握ってくれたものです。だから僕は、なるべくゆっくり味わって食べたいんです」
この声を聞いて、別室で見ておられたお母さんがポロポロポロっと涙を流す、そして仰いました。
「今まで作ったお弁当が全部出てきました。反抗期のときもありました。その時から全部、全部のお弁当が出てきました」
おそらく、その息子さんは初めからそのような気持ちではなかったと思います。でも、あるとき気づいたんでしょうね。
「このおにぎりを朝早く起きて作ってくれた人がいる。僕が食べていたのは、ただのごはんではなかった。親の心というのも一緒にいただいていたのだ」と。
御信心を賜るものの御利益に知恩報徳の益というものがあります。恩を知ったら、その徳に報いて行動が変わっていく。
思えば、私は反抗期の子どものような存在であったそうです。それは、私が、私の目で、私の智慧で見ても分かりません。仏さまが、仏さまの目で、仏さまの智慧でご覧になったときに、「あんたは、久遠劫来生まれて死んでを繰り返しても、何度も何度も如来様のおすくいをはねつけてきたんだよ。それでも、見捨てずにずっとずっとはたらきづづけて下さった如来様が、今あんたの口からこぼれ出る南無阿弥陀仏の声の仏さまだよ」と告げて下さいます。
そのおはたらきをご恩と知るならば、その徳に報いて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏を称えてもいいかもしれませんね。
2018年11月21日〜30日
「お浄土に咲く蓮華の花」
美祢東組正隆寺 波佐間正弘
今月4日に山口県の阿知須というところで開催されていました山口ゆめ花博が閉園しました。
約3ヶ月で延べ130万人以上の方が訪れ大成功に終わりました。私は訪れることが叶いませんでしたが、広大な公園にたくさんの花が咲き乱れとても美しい景色だったそうです。
私が普段勤めている保育園の園庭にもたくさんの花が咲いています。
先日たくさんのチューリップの球根を頂き子どもたちと一緒に植えて、春に美しい花が咲くのを今から楽しみに待っています。水をあげてチューリップの歌を歌ったり、話しかけてみたり、植えたばかりなのに「まだ咲かんね」と子どもたちのかわいらしい様子にほっこりします。チューリップという歌の歌詞の最後に「どのはなみてもきれいだな」とあります。
赤色は赤色のままに、白色は白色のままに、黄色は黄色のままにきれいに輝いている。
赤色が一番ということはなく、黄色が赤色になろうとするのでもなく、どの花もそれぞれが輝き合っている。私はこの歌を聞くたびに仏説阿弥陀経というお経様の中のお言葉が心に響いてきます。
仏説阿弥陀経というお経様の中には「地中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔」というお言葉があります。お浄土に咲く蓮華の花の様子をお説きくださったお言葉で、青色は青色の光を、黄色は黄色の光をとお示し下さいました。
青色が青色の光をと当たり前であるかのようなことをわざわざお説きくださったのは、自分の価値観で赤色が一番いい色であると決めつけ、その他の色は劣った色であると比較の中でしか物事を見ることができない私の姿をご覧くださったからであります。
比較の中でお互いに否定し合うのではなく、認め合い輝かせ合う、どの色を見てもきれいだなと思える阿弥陀様のお浄土へどうか生まれて欲しいと私にお示し下さったのです。
そして阿弥陀様という仏様は赤色の優れた人だけを救うという仏様でも、黄色や白色の人は救わないという仏様でもありません。
優れた色になった私ではなく今の私をお目当てとし、今の私を救わずにはおれないのだとなんまんだぶ、なんまんだぶとはたらき続けてくださる仏様であります。
どんな色のいのちも阿弥陀様に思い願われた尊いいのちであり、否定し合うのではなく認め合う阿弥陀様のお浄土を仰がせて頂きながら日々を送らせていただきたいなと思うご縁でありました。
2018年11月1日〜10日
「全文他力の御法義」
豊浦組専徳寺 原田英真
明治8年に備後に生まれ、昭和6年にご往生あそばされた是山恵覚和上という御高名なお坊さまがおられました。
恵覚和上は、明治生まれの大学者で、西本願寺の御門主一家である大谷一族にも、み教えを講義されるほどの尊いお坊さまでした。
どのくらいの大学者であったかというと。ものすごく頭がきれ、記憶力があった。何百ページも漢文で書かれた親鸞聖人のお聖教の何ページの何行目、上から何番目に何という字が書かれてあるかをスッと言えるほどのお方でした。
ところが、恵覚和上は晩年。今でいう認知症が現れだしたのです。毎朝のお勤め。お連れ合いである坊守さまと本堂にお参りされていたある朝・・・。
「帰命無量寿如来・南無不可思議光・法蔵菩薩因位時」とお勤めしていると、「在世…在世…在世…」と出て来ませんでした。ですから、坊守さまが後ろから「在世自在王仏所」と言われると、次のお言葉が出てきます。「覩見諸仏浄土因・国土人天之善悪・建立無上殊勝願」までくると「超…超…超…」その後が出て来ないのです。ですから坊守さまが「超発稀有大弘誓」と、思い出し思い出ししながらの『お正信偈』でした。その日お勤めが終わったのが一時間以上かかった。
かつての大学者が、あれほどの切れ者が、今や『お正信偈』すら、ロクに思い出せんようになった。肩をガックリ落としている和上に、坊守さまが慰めの言葉をかけられました。「アナタ。それでも最後に南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とお念仏様が出て下さいますね~。だからよかったですね~。」と言われたんです。すると、振り向いた恵覚和上が何と言われたかというと。「いや、よくない。ワシはもうすぐ自分の名前もわからんようになると思う。それだけじゃない。親様の・阿弥陀様の名前・南無阿弥陀仏も忘れると思う。ほいじゃが。ワシが忘れても、親様がワシの事を忘れなさらんで‼安心じゃの❕」と言われたんだそうです。
かつての大学者に、磨き上げてきた頭・握りしめてきた知識を捨てさせ、阿弥陀様がその全てを抱き取りお浄土へと参られました。
浄土真宗のお話は、偉くなる・賢くなるためのものではありません。南無阿弥陀仏と届いて下さる仏様に南無阿弥陀仏と全てお任せする全文他力の御法義ですと 、お聞かせに与かります。
2018年10月21日〜31日
「親心」
下松組光圓寺 石田敬信
幼いころ、幼稚園に行きたくなくて、駄々をこね、冷蔵庫にしがみついて、「アイスクリームをくれんと幼稚園にいかん」と泣きわめいていました。
父と母は笑いながら、私を引き離し、抱っこしたまま幼稚園に連れていきました。
時にあまりに機嫌が悪いときは、一口だけアイスをくれて幼稚園に連れて行きました。
私は、幼稚園に行かずテレビゲームをしながら、アイスを何個も食べられたら、幸せなのにと、当時は思っていました。
私は大学では学びたいことがありましたが、父は浄土真宗のみ教えが学べる大学に行ってほしいと反対しました。結局、行きたい大学に通わせてもらえましたが、就職をしようとしたときに、浄土真宗の専門学校にあと2年通いなさいと、通わされました。
私は、今、したいことができて、どこでもいいから就職できれば良いのにと、思っていました。しかし聴かせて頂いた阿弥陀様のみ教えはとても有り難い教えでした。
もしも、父と母が、私が望むだけ、アイスを何個も何個も食べさせていたら、今頃病気になっていたかもしれません。幼稚園に行かなくて良いと言われていたら、大学にも行けなかったでしょう。父の強い勧めがなければ、阿弥陀様のみ教えを聴かせていただくことは、なかったかもしれません。
子どもが今だけを考えて望む幸せと、親が長い目で考えた子どものための幸せは、違います。
私たち人間が望んでいる救いと、阿弥陀様がはるかに長く思惟されたお救いも、まったく違います。
目先の欲が満たされていくことが、救いではないのです。お金が手に入る、病気が治る、若返る、それらは一時的であり、長くは続かない幸せです。阿弥陀様は、私の煩悩にえさを与える仏様ではなく、私に都合の良い世界を与える仏様ではありません。
阿弥陀様は、私の行く末を長い目で見たとき、生まれたからには必ず死を迎え、煩悩を抱えた私は、地獄に落ちてしまうとみられ、絶対にそうはさせないと、お浄土を建立され、そこに生まれ仏にするための、たくさんのお徳を、南無阿弥陀仏にこめて、私に届くと、誓われたのです。今そのお徳が届いている証拠が、この口から出ているお念仏なのです。
子どもは幼いので親の考える幸せを、自分の本当の幸せと分からないかもしれません、きっと私のように反抗し面倒くさがり、逆らうでしょう、しかし親はあきらめなかったのです。ついに親の言うことは正しかったんだとわかる日がきたのです。親心に負けて、安心できる日がきたのです。
阿弥陀様の、お呼び声も、素直に聞いておいたほうが、良いと思いますよ。
2018年10月11日〜20日
「お浄土をきく」
華松組安楽寺 金安一樹
久しぶりに実家に帰り、本堂に向かうと91歳になる祖父がお夕事を終えて、何やら柱を見ながら涙を流していました。どうしたのだろう?と思って、祖父に尋ねると「この柱は本堂再建の時に、大工さんが一本一本、手作業で削ってくれた柱でね。運ぶ込むときも、みんなで担いだんだ。本堂再建を心待ちにしながら、完成を見届けられなかった人もいる。再建のためにご門徒を一軒一軒回って懇志を集めてくださった方もいる。本当に大変だったけど、これからもたくさんの人がお念仏に出遇う本堂にして欲しいと。たくさんの人の協力があって、こうしてお念仏させて頂いていると思うとね…」と。
私が見ている柱も、祖父が見ている柱も、同じ柱です。しかし同じものを見ていても、祖父にはそこにたくさんの人の想いを感じ、この柱だからこそ味わえる喜びを感じていたのです。ただの柱だと思っていたものが、先達の願いのこもったかけがえのない柱のように感じました。祖父の言葉を聞くことで、今まで気づくことのなかった豊かな世界が広がっていったのです。
阿弥陀さまが建立されたお浄土について聞くということも、お浄土の豊かな世界へと心が開かれていくということです。お浄土にも金・銀・瑠璃等で飾られたお寺があるそうです。これは私が見ているお寺と別に特別なお寺があるということではありません。阿弥陀さまの智慧の眼を通してみた世界は、一本の柱も、一つの釘でさえ、かけがえのない、きらびやかな金や銀のような世界であり、そこに無限の意味と尊さを見出されると説かれています。これは同時に、私のいのちの上にも無限の意味と尊さをもってご覧くださる仏さまということです。私が見ている世界は限られた世界の一面でしかありませんが、お浄土を聞くということは、豊かな世界へと心の視野が開かれていくことであります。
2018年10月1日〜10日
「お浄土のご縁」
下松組教應寺 内山晴香
夏の暑さが嘘のように、朝晩と風が涼しくなって参りました。
秋の夜長、私は、ふと人恋しくなって、自身にとって大切な人たちのことを思い出すことがあります。
私はちょうど5年前の7月、私が大学4年生の時に亡くなった祖父のことを思い出していました。祖父が亡くなったという連絡を受けた時私は、「お別れすることは寂しく、悲しいけれど、祖父が亡くなっても自分の日常生活は大きく変わらないだろう」と思っていました。しかし実際は異なりました。お葬儀、火葬場と付き添わせていただきましたが、その時は、まるで自分が夢の中にでもいるかのようでした。
その状態のまま私は学校に戻り、2週間後、夏休みになって再度実家に戻りました。実家に戻ると、何だか祖父のことが恋しくなり、誰にも言わずにこっそりと、家の中にあった祖父の遺影を見に行っていました。小さい頃「まてまて〜」と祖父の家の廊下を追いかけっこした思い出や、虫取りをした思い出が蘇って来ます。
どうすればよいのか分からないけれど、私は手を合わせてみました、そして「南無…阿弥…陀仏」と声にだしてみました。そうすると、仏教の先生が仰っていた言葉が思い出されました。「阿弥陀様という仏様は全ての人々を、お浄土に生まれさせることができる仏様で、お浄土に生まれた人々は、今度は自身が仏となって、私たちをお浄土に生まれさせようと一生懸命働いてくださるのですよ。」と。
私はもう一度手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお称えしてみました。そして、祖父との思い出を反芻しながら、祖父が自分を大切にしてくれた、その思い出が自分の身体に染み込んでいるように、「南無阿弥陀仏」とお念仏させていただく中で、私と祖父のお浄土のご縁はこれからもずっと続いていくのだと実感しました。
「決して寂しいだけじゃないんだ」亡き人との思い出や、自分を大事にしてくれた様々な方とのご縁を大切にしながらこれからもお念仏させて頂こうと、そう感じたご縁でした。
2018年9月21日〜30日
「法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなわちわが善き親友(シンヌ)なり」
熊毛組光照寺 松浦成秀
頂きましたご讃題は私共の根本聖典、仏説無量寿経の中の一説をいただきました。親鸞様もこの言葉を御消息、お手紙の中に引用されております。
大経には仏様が「もろもろの庶類のために不請の友となる」。仏様は請われもしないのにわたくしどものために、素晴らしい友となり、大悲をおこして衆生を憐れみ、慈しみ溢れる言葉を述べてくださるとあります。そして、他力の御信心をいただき、阿弥陀様の救いを、お念仏の御法を喜ぶものを善悪の善に親友と書いて、善親友(ゼンシンヌ)とお示しであります。阿弥陀様が私共の人生を素晴らしい友として友に語り合い、歩んでくださるということでしょうか。
先日、新幹線に乗る機会がありました。九州の博多の駅からのぞみ号に乗りました。少し社内を想像していただくといいのですが、私は二人掛けの席の通路側に座っていました。通路を挟んで、反対側には横並びで三人掛けの席があります。そこに少し珍しいグループがいらっしゃいました。私の母親くらいの年齢の60代くらいの女性の楽しそうで賑やかな4人組でした。なにが珍しいかといいますと、その女性たちが3人掛けの席のひじ掛けを挙げて、無理やり四人座っていらっしゃったのです。どちらかというと、空席の目立つそんなに混んでいる車内でもないのにどうしてだろうかと思っていると、すぐに博多駅を出て、15分くらいで小倉駅に着きました。すると一人の方がすぐに下りられました。盗み聞きをするつもりはなかったのですが、どうやらその4人は、幼馴染というか、同窓生のようでした。結婚や就職で、全国津々浦々に散らばった友達同士が、久しぶりに再会し何十年分の積もる話に花を咲かせていらっしゃった様子でした。その方々の背景が分かってくると、最初は変な光景だなとしか思えなかった光景が、有難く思えてきました。私にとっては移動時間の15分が、その方々にとっては昔学び舎で机を並べて学んだ時のように、肩を並べて様々に話をしたいことがあられたんだろうなと思うと、違う見え方がしてきたのです。
最初に善親友という言葉を出させていただきましたが、阿弥陀様からご覧になられたわたくし共人間の友情の姿、人間関係というものは様々な様相であったと思われます。
いろんな友達や知り合いがいる中で、あまり会いたくない、嫌いなものもおるでしょう、昔は仲が良かったけれど、様々な事情によって疎遠になることもあります。様々な生き方や寿命の長短がある中で素晴らしい友に出会うことなく終わっていく命のありようもご覧になられたことでしょう。信頼できる友に出会えたとしても諸行無常の理の中で別れが待っております。
その様な私共のために阿弥陀様が浄土真宗の救いをわたくしに届ける中で、則ち我が親友よと素晴らしい友としてこの人生を共に歩んでくださると仰せであります。
2018年9月11日〜20日
「親の喚び声」
宇部小野田組浄念寺 吉見勝道
浄土真宗は他力念仏のみ教えです。お念仏申して阿弥陀さまの国、お浄土に、仏と生まれていく教えです。しかし、他力のお念仏とは、私が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、どうかお浄土に生まれさせてください」とこちらからお願いをしていくもの、ではありません。
阿弥陀さまの方から「あなたのことが心配なのだ」とおいでくださって、私の口からこぼれる声の仏さまと成ってくださいました。私が称えているようで、阿弥陀さまがここに確かに届いている相、それが他力のお念仏です。
それはあたかも母親が、我が子に「お母さんがここにいるよ、お母さんがここにいるよ」と喚び続け、今度は子の方から「お母さん、お母さん」と喚ぶようになるすがたです。親の方から、先に喚び続けてくださったからこそ、子が喚ぶことができるのです。
そして、「あなたを決して見捨てない」という親がここにいるということは大きな安心であります。
先月、山口県の周防大島で藤本理稀ちゃんという2歳の男の子が行方不明になるという事件がありました。その時、理稀ちゃんのお母さんが島内放送で呼びかけをしていました。「よしちゃん、お母ちゃんここにおるよ、よしちゃんお母ちゃんがおるよ」と、悲痛な叫びにも聞こえました。結果、無事ボランティアの方によって発見されます。もしかしたら、あの時、理稀ちゃんは母親の声を聞いていたのではないでしょうか。真っ暗な山の中、自分の力で脱出することはできない、状況は変わりません。しかし、親の声を聞いて安心しておったのではないだろうかと救出された姿を見て思ったことです。
「あなたを決してひとりぼっちにはしないよ」という仏さまがいること。そして、今、私に届いてくださっていることが大きな安心となるのです。
2018年9月1日〜10日
「いただきます」
豊浦西組大専寺 木村智教
仏様とは真実に目覚められ、縁起の道理を説き明かされたお方です。縁起とは「これあるがゆえに、かれあり。これなきゆえに、かれなし」と、すべてのいのちは互いに支え合い、生かされているという道理です。ではなぜお説き下さったのか。それは私達がそのことに思いが至らないからではないのでしょうか。
先日インターネット上で見つけた投稿です。
夫と子供達が昨日潮干狩りに出かけ、アサリを沢山持ち帰ったので一晩塩水に浸け今朝調理した所、昨晩いやにアサリの入ったボールを愛でていた上二人が 「俺のアサリが居ない!」 「ママ!あさりは?飼ってるやつ!」 ボールを逆さに振って大騒ぎしているので食卓に味噌汁を出すことが出来ない。
その後、朝ごはんがお葬式へと一変しました。なお、子供はあさりに「あきちゃん」と名付けていました。お椀に入った「あきちゃん」と対面したとき、驚きと悲しみに心痛めたことでしょう。
ならば、毎日の食卓に出てくる一皿の料理も、実は多くの悲しみが満ちているのではないでしょうか。名もなき多くのいのちが食事を通して私となる。だからこそ、そのいのちを大切に敬う心をこめて、食べることを【いただく】と呼ぶのです。
食事の前には手を合わせて、
多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
と申してから手をつけたいものです。
南無阿弥陀仏
※『Twitter』 きなこ @3h4m1 2018年6月10日 投稿
2018年8月21日〜31日
「如来様に照らされた私」
宇部小野田組西秀寺 黒瀬英世
先日、自坊でお預かりしている保育園で子どもを見ておりましたら、ある女の子が「先生!ちょっと来て!」と私を引っ張ってどこかへ連れて行こうとしました。ものすごく急いでいる様子だったので何か事故でもあったのではないかと心配になり、急いでその女の子について行きました。すると、その女の子は木の前に立って、上の方を指さして言いました。「先生!セミがクモの巣に捕まっちょる!かわいそうやけ助けてあげて!」女の子が指さす方を見てみると、確かにアブラゼミがクモの巣に引っかかっており、苦しそうに鳴きながら巣から逃げようともがいていました。
私はその女の子の気持ちを汲んで、クモの巣を棒で破ってセミを逃がしてあげました。そうすると女の子は満足そうな顔をして、「どう?わたし優しいでしょ?」と言わんばかりの顔で私の方を見ていました。その顔を見た私はついついイタズラ心が騒いでしまい、女の子に言いました。「確かに〇〇ちゃんと先生はセミにとっては命の恩人やけど、クモにとってはどうかね?せっかく捕まえたご飯を逃がされて、お家まで壊されて、もしかしたらあのセミを逃がされてクモはこれからお腹すかして死んでしまうかもしれんね。」そう言うと、女の子は機嫌を損ねてしまいました。
ちょっとイジワル過ぎたかと後から反省したのですが、私たちの優しさ・私たちが考える正しさとはこういった相(すがた)なのではないでしょうか。確かにあの状況を見ると、セミが鳴き、もがき、あたかも被害者のように見えます。しかし、クモにとってはどうでしょうか。必死に生きようと何とかしてエサを捕って、それでやっと捕れたエサを人間の勝手なものの見方で取り上げてしまって良い理由があるのでしょうか。
浄土真宗の仏さまである阿弥陀如来様は、光に譬えられます。光とは闇を破り、今まで見えていなかったものを見せるはたらきがあります。阿弥陀如来様という御光に照らされた私たちの相は自分中心のものの見方しかできず、その見方で見たものを正義であると思い込んでしまい、その正義と違う正義とぶつかれば、争いを生んでしまうような愚かな存在です。
お念仏のみ教えを聞かせていただくということは、そのような私たちの愚かさを聞かせていただくとともに、そんな愚かな私だからこそ救わずにおれないとはたらいて下さる阿弥陀如来様の御慈悲の御心を慶ばせていただくことです。それを聞かせていただく私たちは自らの愚かさを省みて、少しでも阿弥陀如来様の御慈悲の御心にかなう生き方をさせていただくことができるのではないでしょうか。
2018年8月11日〜20日
「泥の中に咲く華」
柳井組正福寺 長尾智章
先日、友人とベトナム旅行に行かせていただきました。首都のハノイの街を中心に寺院や観光地を巡り、充実した旅行でした。
その旅行中、ある物に目が留まりました。それは蓮の華です。行き帰りの飛行機のロゴにもなっており、町中でも土産物や食器、マンホール、またお寺の形であったりと至る所にそれがモチーフとなっておりました。蓮といえば、仏教において大変重要な役割を持つ植物です。仏教国でもあるベトナムは、その蓮の華を国のシンボルの様に扱われ、大変大切にされているそうです。
蓮が生息する場所というのは、高原陸地には咲かず、低地のジメジメした湿地帯、つまり泥田の中に咲いています。しかしそんな泥の中にありながらも、泥に染まらず美しい花を咲かせるのが蓮の華です。
我々がいま生きているこの世界は、それぞれが我執の中で物事を見て感じ、時には喜び時には悲しみ、そんな煩悩を抱えながら生きていく、それは泥の中に埋もれているような娑婆世界であるとお示し下さいます。
しかし、その娑婆世界にいま私を救うと届いて下さっているさとりのおはたらきこそが、美しく咲く蓮の華、つまり南無阿弥陀仏の名号です。浄土真宗のご本尊は、蓮華の台座の上にお立ちになられます。名号をお木像やご絵像にすると、お立ちすがたでそのおはたらきをあらわして下さいます。
さらに、ご開山親鸞さまはこの蓮華をお経典の言葉をうけて、次のようにお示し下さいます。
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
善悪問わずたとえどのような者であろうとも、阿弥陀様の必ず救うまかせよとの喚び声を聞かせていただいた者は、大変勝れた智慧をもつ者であるとお釈迦様はほめ讃えて下さる。その者を仏さまと同じように気高く尊い分陀利華(白蓮華)と名付くとお示し下さいます。
死ぬが死ぬまで煩悩を抱えながらしか生きていきようのない私であるけれども、この身このままでお浄土へと救いとって下さる南無阿弥陀仏のおはたらき。阿弥陀様は遠くの方からじっと見ておられるのではなく、世間の泥沼の中にもがき苦しむこの私を目当てとし、「あなたを必ず救う」と南無阿弥陀仏の名号という清らかな花を咲かせ、我が身の上にはたらき続けて下さっておられます。その名号はいまこの口元に称えるお念仏の声となってこの私のいのちを抱きかかえ、お浄土の仏さまへと往き生まれていく人生を共に歩んで下さるのです。
2018年7月21日〜31日
「別れゆく みちははるかに へだつとも」
厚狭西組善教寺 寺田弘信
私たちがいただいております浄土真宗の本尊は阿弥陀如来でございます。浄土真宗に普段あまり縁の深くない方や他宗派の方でもご存知の言葉が「あみだくじ」ではないでしょうか?「あみだくじ」という言葉は、阿弥陀如来の後光に由来します。
私も昔は物事を決めるときに「あみだくじ」をしたものです。「あみだくじ」の行き着く先にある結果は、全て同じということはありません。またどの通り道もおなじものがありません。
ところで仏教の教えのひとつに因果の道理がございます。これは、結果には必ず原因と条件があるということです。つまり「あみだくじ」のように、選ぶ場所が違えば通る道も違い、異なる結果となります。これは私たちの人生も同様です。誰一人同じ人生を歩むものはいません。しかし歩む道違えども共通するものが二つございます。一つ目はだれしもが悩み・苦しみを抱え生きているということです。二つ目はそんな私たちを「そのままにはせぬ」とすでに私たちに至りとどいて、しっかりと抱きかかえてくださっている阿陀さまの大きなお慈悲のなかにあるということです。
ふと人生を振り返ってみると、「あみだくじ」のように通る道が違うお互いの人生です。
しかしそのいずれも決して無駄ではなく、仏法に遭わせていただくための尊い道でございました。この阿弥陀さまのおはたらきがあるからこそ、私たちはこの世の縁の尽きるとき、阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏となることが出来るのです。
別れゆく
みちははるかに へだつとも
こころは同じ 花のうてなぞ
これは法然聖人が親鸞聖人との別れの際に送ったとされる歌です。
私たちの人生は、歩む道違えども行き着く先(結果)は同じなのです。
2018年7月11日〜20日
「摂取不捨」
萩組浄國寺 杉山恵雄
植物学者の牧野富太郎という方をご存知でしょうか。1862年江戸末期に生まれ昭和初期まで活躍された「日本の植物学の父」とも言われる方です。数百にものぼる新種の植物を発見した近代植物分類学の権威であり、「雑草などという草はない」という言葉に象徴される様に、一目で何の植物か分かってしまう、そんな方だったそうです。
そんな牧野先生が、ある夏休み学生3人を連れて二泊の植物採集の旅に出かけたときのことです。二日間山中を歩きまわってみたもののめぼしい収穫も無く東京へ帰る時間が差し迫っていた時のこと、ふと見た滝の所に珍しい植物があるのを発見しました。どうにかして採集したいと思いましたが、すぐ脇を滝が流れており、そこまでの足場も不安定な状況。学生の一人の腰にロープを巻いて取りに行かせようとするが、大人の体重では道が崩れてしまい近づくことすらできない。どうしたら採集できるか一同が頭を悩ませているとき、偶然近所の小学生の男の子がとおりかかった。見たところその男の子は小学校高学年くらい、大人の体重は支えられない道でも、この男の子の体重だったら行けるのではないかと思った牧野先生は、思い切って男の子にあの植物を採って来てはくれまいかと相談しました。すると男の子は「あの場所は数年前崖崩れがあって危ないから、学校でも行ってはダメと言われている」と言いました。それを聞いても諦めきれない牧野先生は、「君にロープを巻いて私たち4人が持っておくから、それで行ってくれないか」と伝えました。それでも男の子は断りました。「私たち4人でロープを持つだけじゃない。ちゃんとお礼もするし、もし良かったら家族みんなで東京に招待しよう。それならどうだ」と重ねてお願いしても男の子は首を縦に振りませんでした。困り果てた牧野先生は「どうしたら採りに行ってくれるだろうか」と男の子に尋ねました。少し考えて男の子はこう言いました。「ロープをお母さんが持っていてくれるなら、採りに行っても良い」と。それを聞いた牧野先生一行は大変驚きました。
大人の男性4人の力と女性1人の力、どちらが強いでしょうか。普通に考えれば男性4人の力の方が遥かに強いでしょう。でも、ここでいう女性は男の子の母親なのです。そこに大きな違い目があるのでしょう。男性4人がどれほど強い力を持っていても、もし我が身に危険が迫ったらロープを離してしまうかもしれない。でも、あのお母さんならばどれほどの事があっても決してロープを離しはしないという思いが男の子にはあったのではないでしょうか。自分が良い子にしている時も、そうでない時も、いつも変わらず自分の為にはたらいていてくれる母親の姿を知っているからこその出来事ではないかと聞かせていただきました。
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
親鸞聖人は「阿弥陀様は阿弥陀様だから私を捨てないというのではないのです。私のこと何があっても捨てないという目に見えないはたらきを阿弥陀と申し上げるのだよ」と教えて下さいました。私に「こうしなさい、ああなりなさい」と道を告げていく事は簡単でしょう。でもそれをせずただ「あなたを捨てない」とはたらき通しの姿に出あわせていただく時、本当にあてたよりとするものを南無阿弥陀仏と聞かせていただきました。
2018年7月1日〜10日
「阿弥陀の名は」
宇部北組萬福寺 厚見 崇
阿弥陀仏は私たちを真実へと目覚めさせる仏さまです。ところで、阿弥陀仏の名前の由来を知っていますか?阿弥陀というのは、もともとは古いインドの言葉で、ふた通りの意味があります。一つは、限りない光を意味するアミターバ。もう一つは、限りない命を意味するアミターユス。この二つが語源だといわれています。無限の光と命のようなはたらきをもつから、阿弥陀仏という名前があるのです。
阿弥陀仏の限りがない光とは、どこにでも、誰にでも、届くはたらきを表します。例えば太陽の光は、日本でも外国でも、子どもにも大人にも、善人にも悪人にも、平等に照らしてくれます。しかし、その太陽も夜になってしまえば届きはしません。太陽の光とか、世間にある光の限界を超えた無限の光のように、どこにでも、誰にでも、届いているのが阿弥陀仏です。
また、阿弥陀仏の限りない命とは、いつでも、届くはたらきを表します。時代や社会の変化に関わらず、はたらき通しなので、阿弥陀仏といいます。
さて、今、あなたが阿弥陀仏のはたらきについて、どこにでも、誰にでも、いつでも、と聞いたとき、その中に、あなた自身は入っていましたか?「みんな」と聞くと、つい自分の事を忘れがちです。しかし、どこにでも、誰にでも、いつでも、という事は、ここに、私に、今も届いているという事です。ここに、私に、今、届くために、阿弥陀仏は無限の光と命の仏になられたのです。たとえ、私が忘れていても、阿弥陀仏は私を忘れず、私を見捨てることはありません。
お仏壇にお参りしたときだけ、はたらく仏さまではありません。心に思ったときだけ届く仏さまでもありません。どこでも、いつでも、この私を真実の悟りへと目覚めさせるために、無限の光と命の仏となり、はたらき続ける仏さま。それを阿弥陀仏とお呼びするのです。
2018年6月21日〜30日
「目的の真っただなか」
邦西組照蓮寺 岡村遵賢
私は趣味でランニングをします。去る6月10日、長門市のむかつく半島で開催されたむかつくダブルマラソン というものに参加しました。参加するからには目的は完走です。制限時間内に完走したならば、道中の楽しみも苦しみも報われて目的達成となります。途中で棄権してしまっては目的は果たせなかったということです。
人生の目的とは何でしょうか。制限時間内に目的の達成となるでしょうか。
いつの間にか始まったこの人生に於いて真の目的を見出すのは容易ではありません。あれもしなければこれもしなければとあくせくしているうちに自分の持ち時間が終了したなら、それは人生の途中棄権といえるかもしれません。
仏教を開かれたお釈迦様は、我々が目指すべき本当の目的は仏になることだと示してくださいました。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、その目的にこちらから近づいて行くのではなく、
目的である阿弥陀様の方が私に来てくださったことを明らかにしてくださいました。
今この私の身に阿弥陀様がいらっしゃるその証拠がこの口に称えられる南無阿弥陀仏のお念仏です。お念佛称えているということは、
既に目的の真っ只中。お浄土までご一緒の阿弥陀様と二人連れ。もう途中棄権はなくなりました。後悔も絶望も、全てはお念仏にであう尊いご縁であり、この人生に無駄なことなどひとつもなかった、今この瞬間こと切れようともその時はお浄土に仏として生まれゆく時だと、お念仏に聞かせていただくのです。
2018年6月1日〜10日
「仏法を主とし 世間を客人とせよ」
防府組万巧寺 石丸涼道
今年の二月、北海道にお説教に参りました。札幌、小樽、帯広を十六日間で巡るという日程です。二月の北海道ですから、厳しい降雪が予想されます。そのため、購入したものが一つあります。それが、長靴です。ですから、私は上下スーツに長靴という格好で北海道に参りました。山口の宇部空港でも、途中経由した羽田空港でも、道行く人ニヤニヤしながら振り返ります。非常に居心地の悪い気分でした。しかし、北海道に着いたら私の事をじろじろ見る方はいません。何か居心地の良い気分になりました。
上下スーツに長靴という恰好は場所を選びます。居心地の良いところもあれば悪いところもあります。我々のお称えするお念仏も、称えやすいところと称えにくいところがあります。大都会のど真ん中で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と大声でお称えすると、道行く人が「あの人どうした?」と振り返ることでしょう。そこはお念仏が称えにくい場所です。しかし、お寺やお仏壇の前はどうでしょう。大声でお念仏を称えても振り返る方はいません。
蓮如上人のお言葉に「仏法を主とし 世間を客人とせよ」という法語があります。お念仏賜る我々の主人は如来さまですから、その南無阿弥陀仏を称えにくい世間に身を置くのでなく、称えやすい仏法に身を置きなさいよ、と響いて参ります。今この瞬間にもこの口元から私のことを「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」お呼び下さっています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
2018年5月21日〜31日
「いまのお救い」
柳井組正福寺 長尾智章
私たちの浄土真宗というのは、「いま」のお話しであることをお聞かせいただくご宗旨であります。しかし、私たち世間一般で多くよく耳にするのは「これから」のお話しというのがほとんどではないでしょうか。
例えばテレビや本などを見てますと、人生の勝ち組になるために10代からはじめる勉強法や、元気な老後を迎えるために若いうちからやるべき運動など、遠くの方に目標を定めてそこへ向かってこれから努力していきましょう、頑張っていきましょうというのが「これから」のお話です。私たちの世界ではこのような話が非常に多く、その延長で浄土真宗のお話を聞いてしまうと勘違いしてしまうことになりかねません。それは、これからお念仏を一生懸命称えていくと阿弥陀様がたすけに来てくれるんではないかと考えたり、これからお寺に参りお聴聞を重ねていけば阿弥陀様が救ってくれるんじゃないかと考える。お救いというのを向こうの方に、仏さまを向こうの方に置いて、これからそこへ向かって自分が頑張っていこうと、ともすれば聞き間違えていく方も出てまいります。しかしながら浄土真宗というのは、これから阿弥陀様がたすけに来て下さるのではなく、今もうすでに私の身の上に南無阿弥陀仏の声となって至り届いて下さっているのです。阿弥陀様はどこか遠くにおいでになる仏さまではなく、今この私とご一緒して下さっている、そのことを聞かせていただくのです。
私たちの多くは夢や幸せを掴むために人生を歩んでおります。その為には自分が一生懸命努力しなければ得られないものばかりです。しかし、力や才能があり元気な者は頑張れるが、そうでない弱い者、頑張りたくても頑張れない者は一生幸せになれないということになってしいます。自分の力をあて頼りにしないと得られないならば、それは限られたごく僅かな者だけの話になってしまうのです。
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず
阿弥陀様のご本願は、年寄りであろうと幼かろうと、善人であれ悪人であれ、あらゆる者を分け隔てなく浄土の仏に生まれさせるとお建て下さいました。その願いのはたらきが今この私の身の上に南無阿弥陀仏の声となって届いて下さっている、ご一緒して下さってあるのです。この私がこれから一生懸命になって仏さまに近づいていくのではなく、今もうすでに阿弥陀様のお慈悲のど真ん中にあるお互いであったということをお聞かせいただくのが、浄土真宗の「いま」のお救いであります。
2018年5月11日〜20日
豊浦組専徳寺 原田英真
明治45年に兵庫県のお寺に生を受けられた東井義雄という先生がおられました。
先生は15歳の時に、小学校の教師を目指し、姫路の師範学校に入られました。
その師範学校は、何かのスポーツクラブに入らないといけないという決まりがありました。ところが、東井先生は、幼い頃から体が小さく、運動神経もよくなく、どこのクラブも断られるのです。その姿を見かねた陸上部の先輩が、「君、走ることは出来るか?」と聞いてくれ、陸上部に入ることとなったのです。ですが、東井先生は、他の人よりも走るのが遅く、みんなについていけません。その姿を目にした女子生徒達は、「また、あの一年坊が遅れてるぞ」と笑っていたのです。それは、やっぱり辛く、恥ずかしいことでした。
東井青年は毎日・毎日走りながら、いつもイソップ童話の「ウサギとカメ」の事を考えていました。
「カメである私であっても、努力を重ねれば、いつか、あの早いウサギに勝てるのかな。」と思い、毎日黙々と練習していたんです。
しかし、ある日とんでもない事に気がついてしまいます。あの「ウサギとカメ」というお話は、ウサギが主人公で、どんなに能力の高い人でもサボっていれば、カメのようなものにも抜かれるという戒めの話だと思ったのです。どんなにゆっくりウサギが歩いても、どんなにカメが努力しても、ウサギに勝てるわけがないという事に気がついてしまったのです。それに気づいてからは、毎日走ることが更に辛くなりました。
ですが、その時に考えられました。「だったら、カメである私はこの先、どんな人生を歩めばいいのか?」
「そうだ、カメが努力をしてウサギに勝とうとするのではない。勝ち負けを人生の目標にするのではなく、カメは、カメの人生を精一杯歩めばいい。」と思うと楽になったというのです。
私はいずれ小学校の先生になるだろう。その時に勉強の・スポーツの出来ない子供に対して、「君の努力が足りないからだ」と罪を告げるのではなく、その子の弱さを認める事の出来る・その子がその子のままで前を向くのを待ってあげることの出来る先生になりたいと思われたことでした。
2018年5月1日〜10日
「宝物」
美和組超専寺 村田亜紀子
私の祖父の頭には大きな火傷の跡がありました。
祖父がまだよちよち歩きだった頃に、お母さんが少し目を離した隙に囲炉裏の中に転げ落ちてしまい大火傷を負ってしまったそうです。
学校に行くようになると、毎日その火傷の跡をからかわれ、泣きべそをかいて帰る毎日。泣いて帰ってきたわが子を、お母さんはいつもぎゅっと強く抱きしめてくれたそうです。
「お前が悪いんじゃない。お母さんが悪かったんじゃけぇね。すまんかった。すまんかった。」
それからもとにかく火傷の跡のことで傷つくことが多かった祖父は、いつしかお母さんに辛くあたるようになりました。
「わしがこんなみじめな人生を送らねばならんのは、全部お前のせいだ。」
どれだけでもそんな文句が口から出て来たそうです。その言葉を、お母さんはすべて受け止め、「すまんかった。すまんかった。」と口癖のように言いながら老いていったと言います。
後に寺の住職となり、仏法をお聴聞するようになった祖父。阿弥陀様の五劫のご思惟、兆載永劫のご修行、永遠とも思える長い長い間、ひと時も飽きることなく、嫌になることもなく、途方もないそのご苦労は一体誰の為であったのか。他でもない、この私の為であった。阿弥陀様のはかりしれないお慈悲を聞かせていただく度に、少しずつふさぎこんでいた自分の世界に光が差し込んで、それまで気づきえなかった世界が知らされてきたと言います。
それまで、自分ばかりが苦しくてみじめで、と思っていたけれど実は自分のことで自分以上に心を痛め、泣いてくれる人がいたということ。その人の優しさにどれだけ自分が唾を吐き続けてきたかということ。それでも見放すことなどできるはずもなく注がれた親心が、これさえなければと思っていた火傷の跡にぎゅうっと込められているということ。
「南無阿弥陀仏」とお念仏を申す度、阿弥陀さまの光明が、欲と怒りと愚かさで染まる我が闇を破り、この火傷の跡こそ、どんな金銀財宝にも勝る、我が人生の宝であったと気づかせてくださったんだと晩年よく語ってくれました。その味わいから、「南無阿弥陀仏を申す人生にまちがいはないから、そのことだけはよく心得ておけよ」と、孫の私に何度も何度も言い聞かせてくれました。伝えずにはいられない深いよろこびがあったのだと今思うことです。
「宝の山に入りて手を空しくして帰ることなかれ。」
この人生は尊い宝で満ちているにもかかわらず、私はガラクタばかりを追い求め、本当の宝物に見向きもしないという愚かさで生きています。南無阿弥陀仏はそんな私の本当の豊かさを知らしめてくださる、真実の宝なのです。
2018年4月21日〜30日
「ある少女のお領解」
豊浦西組大専寺 木村智教
江戸時代、現在の富山県に当時七歳の女の子がいました。幼くして天然痘を患い、人里離れたお寺で両親と住職に看病されていましたが、病状は日増しに重くなるばかりです。
ある日、母親がこの子にたずねました。
「あなたは死んだらどこに行くのかな?」
「私が死んだら、極楽へ参ります。阿弥陀様が奔走して私のことをお待ちです。」
「どうやっていくの?」
「阿弥陀様に背負われてお参りします」
母親は大変驚き、このやりとりを住職に語り、共によろこびました。「もう一度たずねよう」と住職は言いましたが、一転して「見ての通り苦しがっていますもの。止めて下さい」と母親は断りました。
しかし住職は聞き入れず、女の子に先のように問うと、同じ答えが返ってきました。「ではなぜ阿弥陀様が背負って下さるのかな?」と住職が尋ねると、少女は「私にはその理由はわかりません。しかし、阿弥陀様は私のことがかわいくてかわいくて仕方ないのでしょう。」と答えました。住職は「阿弥陀様の不思議のおはたらきがこの子の胸の内に入り満ちて、このようなお領解を述べられたのだ!」と涙を流してよろこばれました。程なくして、この子はお念仏と共にお浄土へお参りしました。
阿弥陀様のお浄土建立のおいわれとそのお心を、この子は全身で聞いたに違いありません。春風が心地よい季節、共々に阿弥陀様のお心をお聞かせに預かりたいものです。
南無阿弥陀仏
2018年4月11日〜20日
「お浄土」
下松組光圓寺 石田敬信
春になり、朝も暖かくなり、穏やかな空気の中でお朝事のお勤めをさせていただいていたときに、ふと、亡くなった祖父母の住んでいた家を思い出しました。
小さいころからよく、泊まりにいき、楽しい思い出がある家です。二人は私をかわいがってくれました。泊まった翌朝の、起きた時二人がいて、暖かな部屋で、穏やかな時間が流れていた家でしたから、その空気を思い出したのでした。
もうあそこには誰もいないと考えると、お経を称えながら泣きそうになりました。
思春期に親とぶつかり、うまくいかない時は、よく泊まりに行きました。二人は干渉もせず、「よくきたね」と迎えてくれました。私にとっての第二の故郷でした。
母にとってもやはり、そのような家でした。母も辛いことがあると、短い時間ですが祖父母の家に帰り、辛い内容を愚痴るわけではないのですが、何も言わなくても祖母はすぐに何かあったことを察して、「辛いやろうけど、辛抱せんといけんよ、頑張りんさいよ」と一声かけるのでした。母はその一言で、また頑張ろうと、帰っていくのでした。
私にとっても、母にとっても、祖父母の包容力は、生きていく力になっていました。
生活が続いていくなかで、つまずきそうになった時、辛い時、このように帰る家があるかないかは全く違います。
その家に、「辛い時はいつでもきていいからね、いつでも帰ってきなさい、私はここにいるから」と、私を思いながら、心配しながら、待ってくれる人がいることは、私を強くさせます。辛い時も生きぬく力を与えてくれます。
お浄土は、阿弥陀様の願いとお徳でできた、すべての生きとし生けるもののいのちが帰っていける家です。阿弥陀様はそのすべてのいのちを、ひきうけて下さった親様です。
そのことを聴かせていただいた時に、ありがとうございます、なんまんだぶなんまんだぶと、お念仏がでてきます。
お浄土と阿弥陀様の願いのはたらきがあることで、また、それは私のためだったのだと聞かせていただくことで、阿弥陀様のお徳によって、また祖父母にあうことができるのです。
今でも、私の心の中で、キラキラ輝いて、温かな祖父母の家が、祖父母が
「いつでもわたしたちはここにいるから、いつでも帰ってきなさい、安心しなさい」と私を支えています。
2018年4月1日〜10日
「春の歌」
宇部小野田組浄念寺 吉見勝道
春の歌にこんな歌があります。
「うぐいすのひと声は春の至りなり お念仏のひと声は本願の至りなり」
私たちは春という季節がいつから始まったということをはっきりと気づくことはありません。しかし、うぐいすの「ホーホケキョ」と鳴く声を聞いて、「ああ、此処にも春が届いてるんだな」と感じるのであります。草木が芽吹き、桜の花が咲くと「此処にも彼処にも春が届いてるのだな」と知ることができるのです。
それと同じように「南無阿弥陀仏」とお念仏申す時に「阿弥陀さまがもう私に届いてくださっている。おまえのことを決して見捨てるようなことはしないよ。おまえのいのちは私が引き受けたから何も心配することはないよ。どんなおまえであっても必ずお浄土連れて帰るからね。おまえはそのいのち精いっぱい生き抜いておくれよ。」
いつもは愚痴しか出てこないこの私の口を使って阿弥陀さまが此処に届いてくださっている証拠。それが、この私の口からこぼれる「南無阿弥陀仏」のお念仏なのであります。
2018年3月21日〜31日
「お彼岸」
華松組西光寺 佐々木世雄
お彼岸の季節になりました。数年前のちょうどこの頃、お墓参りに来ていた家族にレポーターが取材している様子を
テレビで拝見しました。まだ幼い男の子にマイクが向けられます。
「今日はどうしてお参りにきたの?」
「はい、おじいちゃんに会いにきました。」
「亡くなったおじいちゃんに会いにきたのですね。おじいちゃんに何か言いたいことはありますか?」
「はい、おじいちゃん!天国に行っても、お仕事頑張ってね!」
数十秒の短いVTRでしたが、今でもよく印象に残っています。男の子の言う「おじいちゃん、天国に行っても、お仕 事頑張ってね」を浄土真宗の教えに照らし合わせて、考えてみたいと思います。
まず、「天国に行っても」という表現ですが、仏教で天国といえば、天界を指し、天界は六道輪廻の中の迷いの世界をあらわします。ですから、「天国に行っても」というよりは、「お浄土に行っても」と言ってほしかったですね。
もちろん、男の子が迷いの世界という意味で天国と言ってるのではありません。そもそも浄土という言葉、世界を聞いたことがないかもしれません。子供たちに、少しずつでも「浄土」という仏様の大きな世界を伝えていくことが大切だと感じました。
そして、もう一つ「お仕事頑張ってね」という表現ですが、これは大正解です。浄土に生まれ仏様に成らせていただくということは、大きな仕事が待ち受けているということです。なんだ、浄土に生まれてからも仕事をしないといけないのかと、思わないでください。それは、私たちの想像しうるこの娑婆世界の仕事とは違います。
仏様とは相手の幸せを自らの幸せと受け止めていく方です。浄土に生まれ仏に成るとは、如来様とご一緒に、残してきたもの、生きとし生けるものの幸せを願い、支え続け、見守り続け、浄土に導いていく役割を担っていくというこ となのです。
この世の縁尽きて浄土に生まれてくださった多くの方々、今まさに様々な手だてをもって私たちを支えてくださって います。
2018年3月11日〜20日
「母のおにぎり」
大津東組西福寺 和 隆道
私が小学生の頃、年に一度、遠足がありました。その遠足では、お弁当として、おにぎりを持っていくことになっていました。
お昼になり、各々が持ってきたおにぎりを取り出します。おにぎりというのは、作った人の個性が出ます。色々なかたち、のりで巻いたもの、ふりかけがまぶしてあるもの、色々あります。私のおにぎりは、母が握ってくれたものです。丸くて大きな銀紙を広げると、中から真っ黒なのりで巻かれた、大きなおにぎりが出てきました。友達からは、「爆弾おにぎり」と言われました。一口食べると、中から昆布が出てきました。もう一口食べると、今度はおかかが出てきました。さらに食べると、今度はしゃけが、梅干しがと、次々と色々な具材が出てきます。食べ終わると、お腹がいっぱいになりました。「いっぱい食べて大きくなれよ」、母の願いが込められたおにぎりでありました。
阿弥陀如来という仏さまは、迷いの境界で苦しむ我々の姿をご覧になって、衆生可愛や不憫やのお心から、お浄土というさとりの世界をお作りになりました。そして、我々がお浄土に生まれるために必要な功徳を、南無阿弥陀仏のお名号に込めてくださり、今そのお名号が私のもとに届けられています。そのことを聞いて信じ、この世の命が終えた後は、お浄土に生まれさせていただくと、安心安堵の人生を送らせていただくことが、浄土真宗のお同行の喜びでございます。
2018年2月21日〜28日
「安心の中に」
美祢西組正隆寺 波佐間正弘
昨年10月にわたしのおじいちゃんであります前住職がめでたく往生の素懐を遂げました。
おじいちゃんは勉強が大好きで、毎日机に向かい本を読み、阿弥陀様のこと、親鸞聖人様のことなどを学んでいました。おじいちゃんは晩年、「わしが死んだらめでたく往生したと言ってくれ」と何度も何度も言っていました。
葬儀の時にこの言葉を父があいさつの中で言ってくれました。私たち家族は目の前がかすんで見えないほどの大粒の涙をぽろぽろぽろぽろと流しました。私たち家族にとってはめでたいという感情よりも、つらく悲しいという感情の方が正直大きかったように思います。
しかしおじいちゃんは、ずっと聞かせていただいておった阿弥陀様のお浄土に生まれさせていただくことができる。こんなにめでたいことはない。そう思い続けていたのでしょう。おじいちゃんの口から「死にたくない」というような言葉を聞いたことは1度もありませんでした。ただもう少しあれがしたいな。こんなものをもう少しだけいただきたいなということを時々言っていました。
おじいちゃんの最後の言葉は「今までお世話になりました。なまんだぶ。なまんだぶ。」
それからはただただお念仏申させていただくだけでした。
「われにまかせよ、かならずすくう」という阿弥陀様のお慈悲にやさしく包まれ、大きな安心の中にあったようなおじいちゃんらしい別れであったなと振り返ることであります。
親しい人、愛する人との別れはつらくかなしいことであります。しかしただただ悲しくむなしいだけでは終わらせないと立ち上がって下さったのが阿弥陀様であります。
そのままの私をお目当てとし、南無阿弥陀仏のお名号となり私に至りとどいてくださる阿弥陀様。その阿弥陀様の大きなお慈悲に今まさに包まれておるという喜びを、改めて感じながら日々を送らせていただきたいなと思います。
2018年2月11日〜20日
「私に向けられた願い」
華松組安楽寺 金安一樹
数年前に放送されていた「海猿」というドラマを久しぶりに見ていました。これは海などで起きる事故の救助に向かう海上保安官の潜水士という職業を描いており、主人公の仙崎という青年が、大好きな海で不幸があって欲しくないとこの潜水士を目指す物語です。
実際、潜水士になるには、命懸けの過酷な訓練に耐えなければなりません。体力作りのため約30キロもある酸素ボンベを担いでのランニングや数時間にも及ぶ水中訓練など。体力だけでなく、海や天候等の専門的知識も必要とされます。そして救援現場では自らが蓄積した全ての力を、助けを求めている救助者に振り向けるのです。一万人以上いる海上保安官の中でも、この厳しい訓練に耐えた1%の者しかなることができないのが潜水士という職業だそうです。
この潜水士になるには、最終試験で実技試験と別に面接があります。面接では先輩や後々の上司に対して「人のために力を尽くせる人になりたい」や主人公の仙崎のように「大好きな海で不幸を起したくない」と願いを伝えるのです。この願いをよくよく考ますと、潜水士になりたいという自己の願いの中に、他の“いのち”の幸せを願った想いが根底としてあることに気づかされます。
これは阿弥陀さまの願いについても通ずるところがあります。阿弥陀さまがまだ法蔵比丘というご修行の身であった時、今生きている意味やどこに向かって歩んでいるのかも分からず、不安と孤独を抱えた私たちをご覧になり、「私が変わって、全ての者を苦悩から救える仏になりたい」と誓われました。この誓いを中心に四十八の願いを建てられ、願いの実現のために私たちの頭では考えられない兆載永劫という長い間ご修行くださり、その培った全ての功徳を南無阿弥陀仏のみ名に込めてくださりました。この南無阿弥陀仏に込められた阿弥陀さまの願いをお聞かせいただくと、願いの内容全ては、私を苦悩から救いたいという「私に向けられた願い」であるのです。
2018年1月21日〜31日
岩国組教法寺 筑波敬道
阿弥陀様は、この私に救われる為の生き方は告げず、また罪の深さも重さも告げずに、ただ救いだけを告げ続けてくださっていますと聞かせて頂いております。確かに、実現不可能な生き方を告げられたり、更に「あなたはここが悪い」と指摘されても辛いだけですが「あなたを救うよ」「見捨てないよ」「安心しなさいよ」という言葉は嬉しいし、有り難いものです。阿弥陀様は、修正も訂正も出来ない私を見抜き切って、その私を特別の目あてとして、この私の所に届き、休むことなく、はたらいておられる仏様でした。
昨年11月、あるお寺の報恩講様にご縁を頂戴いたしました。日程は三日間で、毎座たくさんのお参りがあり、お同行の方々は熱心に、なによりも大変温かくお聴聞をくださいました。三日目、ご満座の時の事です。話し始めてまもなく、お同行の方々からなにやら小声で話声が聞こえます。しばらくすると大声で「蜂」という声が聞こえてきて、その視線の先の天井に設置された空調から、十数匹の大きな蜂が次々と出てきており本堂内は騒然としました。窓を開け始める方、来ていた上着で払いのける方、殺虫剤を取りに出られる方、もう法話どころではありません。しばらくして、堂内も少し落ち着きを取り戻し、再開することになりましたが、その後もやはり気になり、集中力を欠いた状態で終わってしまい自身の未熟さを痛感する厳しいご縁になりました。
親鸞聖人はお手紙の中に自らの力で浄土往生を願う事を
わが身をたのみ、わがはからいのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり
と言われています。
自身の行動力や決断力、判断力などが一番たよりになるものだとし、行動や言葉や心を整え、立派にして浄土へ生まれようと考えているのは、自らを誇り真実の阿弥陀様を見失っている姿であると教えてくださいました。少しの出来事で心は乱れ、結果、自身の力はかなわず永い間迷い、苦悩してきた私をこそ特別のめあてとしておられるのが阿弥陀様でした。
日々の生活に追われ、阿弥陀様の事を忘れて生活している私ですが、その私を決して忘れてくださらない阿弥陀様の話を聞かせていただきたいものです。
2018年1月11日〜20日
「新しい原点」
豊浦西組大専寺 木村智教
昨年の10月、あるご門徒様のご法事にお参りしました。迎えてくれたのは、施主のおばあさんと3歳のお孫さんです。お孫さんの名を「はるくん」といいます。お茶を頂いていると、おばあさんがはるくんにお念珠をもたせ、
「はるくん手を合わせてね、なんまんだぶっていうんよ」
「やんばだむ やんばだむ」
「はるくん八ッ場ダムじゃないよ。なんまんだぶよ」
と、手を合わせ,お念仏申すことを教えていました。
この日はお正信偈をお勤めしました。しかし、私の中で二人のすがたと私と亡き祖母のすがたが重なり、念仏和讃より私の目から止め処なく涙が溢れ、声が出せなくなってしまいました。それでも読み終わり、向き直って、ご文章を読んでも涙が止まりません。私は恥ずかしくなり、急いでご当家を後にしました。
孫が祖父母から手を合わすことを教わる。ありふれた法事の光景です。しかし、物心つかぬ孫にとっては顔も名前も知らぬ祖父の法事です。参ろうと思って参ったわけではありません。親に連れられ、その声を通してお念仏とであったのです。
私達が今申しているお念仏もまた、有縁の方から授かったものです。その声は「我にまかせよ、必ずすくう」という仏様の絶え間ないおよび声です。その声を聞き、身を任すままに、確かな拠り所を賜ります。仏さまの御前。ここが私の、そしてあなたの新しい原点です。
南無阿弥陀仏