テレホン法話2025年

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2月1日~15日

 

厚狭西組 善教寺 寺田 弘信

 

『無生の生』

 

 こちらは本願寺派山口別院です。このたびは厚狭西組善教寺の寺田弘信がお取り次ぎします。

 

出会いがあれば、別れもある。今年の春で浄土真宗のお寺の僧侶として、十三年目を迎えることになります。その間に、ご門徒の方を中心にたくさんの出会いもありました。またそれとは逆に、葬儀にも関わってまいりました。

 

浄土真宗の場合、葬儀にあたり、まず出棺勤行として「帰三宝偈」をお勤めすることがほとんどです。

 

その内容は、まず善導大師が、人々に菩提心をおこし、生死すなわち迷いの世界を超えることを勧めます。次に自ら仏・法・僧の三宝に帰依すること、さまざまな仏や菩薩に帰依することを述べ、加護を請います。さらに煩悩具足の身である私たちが釈尊と阿弥陀仏み教えに出遇えたことを喜び、釈迦·弥陀二尊の真意を明らかにしたいと述べています。そして最後に、南無阿弥陀仏の功徳を人々に与え、共に菩提心をおこして浄土に往生しようと述べています。

 

「先立たれていかれた方をご縁として、この私がお念仏のみ教えに出遇わせていただく場」、まさにそのような場に相応しいお勤めであるのです。

 

その中で「(速証)無生身」という言葉が出てまいります。生まれることがない身とは、迷いのいのちをいたずらに繰り返さないということです。生老病死の生がないということは、そのあとに続く老病死の苦しみからも抜け出すということなのです。

 

そしてさとりのいのちをいただいて、阿弥陀仏と同じはたらきをする仏を成った暁には、

 

迷いの世界へとただちに還ってきて、あらゆるいのちを救っていくのです。死んでしまいのいのちではありませんでした。どこでなにをしているのか、わからないいのちでもありませんでした。

                                            南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…


2月16日~30日

 

宇部小野田組 法泉寺 中山 教昭

 

 

 昔、人間は放っておいたら何語をしゃべるのかという研究があったそうです。犬は教えなくても、「ワンワン」と鳴くし、猫は教えなくても「ニャーニャー」と鳴く。では、人間は言葉を一切教えなければ、何語を言うようになるのかという実験が行われたそうです。それは、言葉を教えない。徹底的にコミュニケーションをとらないという実験だったそうです。その時代は捨て子が多かったので、その子どもたちを集めて実験を行ったようです。食べ物や飲み物をしっかり与え、暑い時には涼しく、寒いときには温かくするなど、食事や温度、湿度などの環境は完璧に整えたそうです。ただ、目を合わせたり、話しかけたり、笑い返したりなどのコミュニケーションは完全に排除したようです。そうすると、その子どもたちは2年以内に全員死亡したようです。この実験で分かったことは、人間はコミュニケーションをとらなかったら死ぬということでありました。犬や猫はコミュニケーションなしでも死ぬということはないですが、人間はコミュニケーションをとらないということは命に関わるということが分かったようです。人間は1人では生きていけないし、それだけ弱い生き物であるということをこの実験は教えてくれているように思います。阿弥陀様は、自分一人ではどうしようもなく、弱い弱い生き物であるということを最初から見抜いて、放ってはおけんと立ち上がってくださいました。自分一人ではどうしようもないあなただから、そのままでいいよ。変わることはないよ。私があなたを救える仏になるよ。と仰ってくださったのが阿弥陀様であると聞かせていただくことです。 


4月1日~15日

 

邦西組 照蓮寺 岡村 遵賢  

 

「ただ念仏のみぞまこと」

 

お釈迦様は、今からおよそ2500年前、この娑婆の世に誕生され、さとりの仏(ブッダ)となられました。その生涯のお説教は、『お経』として今に伝わります。

 3月31日の朝日新聞にて〝「悟り開いた」AI〟という見出しの記事を見ました。要はAI(人工知能)にお経の言葉をたたき込んで、ブッダのような智慧を持たせようという研究の話です。既に経典の言葉を語り、会話の出来るコンピュータは存在するそうです。記事には、研究者の言葉として、「根本的な開発の動機は、ブッダと直接対話をしたいということ。ブッダが入滅してから2500年の間、仏教徒にとって悲願だ」とあります。

 ところで、お釈迦様の遺言として「自灯明・法灯明」との言葉が伝わっています。「我(釈迦)亡き後は、自らを灯明とせよ、法を灯明とせよ」。とおっしゃいました。つまり、釈迦は姿を隠しても、法は、はたらき続ける。そのはたらき所は、その法に出遇った自分を除いて他にはないということでしょう。

 世間は刻々と移り変わり、善いも悪いもひっくり返ります。「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と『歎異抄』に親鸞聖人のお言葉として出てまいります。このお念仏の法こそが、決して消えはしない、我が身を照らし出す灯明でありました。

 我々は、お念仏の者は、先祖代々真の仏と出遇ってきたのではないでしょうか。お念仏申す中に、安心の対話があったのではないでしょうか。「そのまま救う。必ず浄土の仏にするぞ。」「なんとまぁよかったなぁ」この人生の行く先の答えはとっくに出ていました。

 AIの発展が、法縁となりうるなら大変有難いことです。しかし、発展途上で次第に答えが変わるようでは逆に戸惑います。ナンマンダブツは既に仕上がっております。どんな時代が来ようと、凡夫を仏とする御法義に、一片の不足もありません。

称名

 


4月16日~30日

 

宇部北組 萬福寺 厚見 崇

 

「 はかりしれない光の世界

 

まだ真っ暗な夜の事です。私は目が覚めて、トイレに行こうとしました。部屋の明かりのスイッチが分からず、真っ暗なままでしたが、そのまま廊下へと歩き始めました。いつもなら何ともない家の廊下も、足元もよく分かりません。おそるおそる進んでいると、窓から月明かりが差し込み、ぼんやりとですが、廊下の先のトイレが見えてきました。おかげで、いつもの通りに普通にトイレを済ませることが出来たのです。暗闇のなかでの、光の有難さを知らされました。

 

 

 

 実は、私たちは闇夜の人生を歩いています。たとえ昼間の太陽の明るさ、あるいは蛍光灯、LEDでどんなに明るく照らされて、何もかも知ったような素ぶりで歩いていようとも、仏さまの智慧の世界からみれば、明かりのない闇夜のような生き方をしているのです。いつもあるとは限らないもの、健康、愛情、お金などをたよりとして、いっときの楽しさのために時間を費やし、私が損か得かの価値観に縛られ、さも良いことをしているかのように思い違いをしているような人生です。そんな闇夜の人生に、仏さまの智慧は光となって、私たちの闇夜をうち破り導いてくださっています。

 

 

 

 どんな状況、いつでも、どこでもたよりとなる智慧でもって、本当の安らぎや楽しみに満ち溢れた安楽の境地をあたえ、自分と他者の区別をとびこえて、よこしまな汚れのない世界へと誘ってくださっています。

 

 

 

 親鸞聖人は、阿弥陀仏のお浄土のことを「無量光明土なり」すなはち、無量のはかり知れない光の世界ですよと示されます。この光、光明は阿弥陀仏の智慧であり、すべてのものごとを知り尽くされた、はたらきです。そして、その光は、限られることのない無量の光明であると示されます。無量の光明でもって、1人ももらさず、私をもらさず、つつみこみ導いてくださる。そんなお浄土の「無量光明土」の世界を聞かせていただきながら、智慧の光によって闇夜が破られたこの人生を歩みます。

 

 

 


5月1日~15日

 

華松組 安楽寺 金安 一樹

 言葉の海を渡る舟:ドラマ『舟を編む』と私」

 

 舟を編む」というドラマをご存じでしょうか。10数年の歳月をかけ、一冊の辞書を編纂する辞書編集者たちの情熱を描いた物語。誰もが手にしたことのあるあの分厚い辞書には、一見、淡々と並ぶ言葉の裏に、「作り手」の想像を絶する情熱が注がれているのでした。このドラマは、私たちが無意識に使っている言葉について深く考えさせ、辞書が好きになるお話です。

 

 

 

作中、新人編集者が悪気なく「辞書なんて、言葉と説明だけですよね」と言います。これを聞いた先輩は、「“なんて”という言葉を辞書で調べてごらん」と促すのです。新人は辞書を引き、その言葉に相手を軽視する意味が含まれることを知ります。「お前なんて」「私なんて」日頃、無意識に使っていた言葉が、誰かを傷つけていたかもしれないことに気づくのです。

 

しかし、先輩は新人を責めません。「全ての言葉には、その言葉が生まれてきた理由があります。誰かが誰かに何かを伝えたくて、伝えたくて、必要に迫られて生まれてきたのです。悪いのは言葉ではありません。その選び方と使い方です。」と。

 

“なんて”という言葉も「なんてかわいいんだ!」「なんて素敵なのだろう!」と、詠嘆や感動も表します。言葉は、選び方と使い方次第で意味が大きく変わるのです。

 

 

 

先輩は言います。「言葉の海を渡る術を持たない僕たちは、海を前に佇む。辞書とは、その海を渡る一艘の舟だ。誰かに届けたい思いを、言葉を運ぶために、僕たちは舟を編む。言葉の海を渡る“大渡海”という舟を」。(※『大渡海』は、編集している辞書のタイトル)

 

 

 

どんな言葉も選び方と使い方によって良い意味にも悪い意味にもなるように、人生に起こる出来事も捉え方次第で良い出来事にも悪い出来事にもなります。言葉の真意を辞書が教えてくれるように、どんなご縁も意味あるものに転じてくださるのが、お念仏の教えです。だからこそこのお念仏はただの言葉ではありません。何が起こるか分からない人生を生きる私に、阿弥陀さまは「何があっても見捨てず支え、浄土へと導く」と、伝えたくて、伝えたくて生まれた特別な言葉です。お念仏もまた、人生の海を渡る舟。人生の航海の旅路において、私を根底から支え、決して沈めることなく、お浄土へ運んでくださる。このお念仏の舟に身を委ね、安心して大海原へ帆を進めることができる。これこそ、お念仏に出遇えたよろこびです。


5月16日~30日

 

宇部小野田組 西秀寺 黒瀬 英世

 

「浄土真宗のご法事」 

皆さま法事は勤められますか?

浄土真宗の法事とは、法事を通して亡き人の愛情を感じる営みであると最近感じています。

 死別の悲しみは言葉に表せないものがあります。それは私なんかよりもこれを聞いておられる方々の方がよくご経験されておられることでしょう。

 私自身、少し前に大変お世話になっていたご門徒の方が急に亡くなられ、その方の臨終勤行のときに涙でお経が読めなくなったことがありました。

 その方は私がお参りに行く度に「いつも頑張ってるね!」「今回の寺報もすごくいい文章だったよ!」と心から私を応援してくださっていた方で、その嘘のない真っ直ぐな眼差しと言葉にいつも励まされ、お寺としても、個人的にも献身的に支えていただいた方でした。そんな方のご縁だったため、どうしても感情が先行し、お経の途中で泣いてしまいました。さらにその後も遺族の方々に何の声もかけられず、一番悲しいはずの奥様に背中をさすってなぐさめてもらう始末。

 私は「僧侶のくせに儀礼の時に泣いてお経が読めないなんて坊さん失格だ!自分が恥ずかしすぎる!」と一丁前に反省しておりました。しかしその考えが根本的に間違いだったことに気付かされたのです。

 浄土真宗において死別の悲しみは乗り越えるものではありません。その悲しみは生前亡き人から受けた愛情故の悲しみなのです。たくさんの愛情をもらい、愛情を注いだからこそ別れるのが辛く、悲しいのではないでしょうか。その涙は亡き人に対する愛情の証なのです。

 浄土真宗の仏さまである阿弥陀如来はそんな私たちの愛情も悲しみもすべて包んで救うと誓ってくださった仏さまです。ですから法事の場で、阿弥陀さまの前で、涙をこらえる必要なんて全くなかったんです。泣きたいときには泣けばいいんです。諸行無常の理を受け入れられずに悲しむ凡夫をその涙ごと救う仏が阿弥陀さまでした。

 亡き人から受けた愛情、注いだ愛情を忘れないでいることができるのは、今ここに生きている自分自身だけです。浄土真宗の法事とは、生きている私たち自身が仏法に心傾けるとともに、亡き人から受けた愛情に思いを馳せ、時には思い出に浸って涙を流す。そんな大切で尊いご縁であると感じています。

 どうぞ皆さま、煩わしいことも多いでしょうがご法事はできる限り勤めていきましょう。

 


6月1日~15日

 

白滝組 専修寺 高橋 了

 

私を潤してくださるもの

 

『仏説無量寿経』に「澍法雨(じゅほうう)」というお言葉があります。草木に雨が注ぎ、いのちが育まれるように、私のいのちに仏法の雨が降り注ぎ、私を育んでくださるという大変美しい譬えです。

 

ある日、家族で出かけている時に雨が降り出しました。私は、洗濯物を干していたことに愚痴をこぼしましたが、息子は「田んぼのカエルが喜んでいるね」と、他のいのちのよろこびを口にしました。同じ雨でも愚痴が出ることもあれば、よろこびが出ることもあると感じたものです。また、雨上がりの日にはお寺の境内の草がよく伸びます。抜いても抜いても生えてくる草にまた愚痴をこぼします。晴れの日が続くと、綺麗な花や畑の野菜に水をあげねばと愚痴をこぼします。私が好きなものには水をよくやりますが、都合の悪いもの、雑草に水やりをすることはありません。こんな日常から私の自己中心的なものの見方、自分勝手さに気づかされます。

 

仏教では、私の姿を渇いた存在であると示されます。私の心は、さまざまな悩みを抱えながら、時に渇き、迷い、疲れ果てます。人の肌も乾くと傷みます。大地も乾くとひび割れます。心は渇くと傷つきます。そんな私の姿をご覧になった阿弥陀さまは、分け隔てなく、お慈悲の雨を私の身にそそぎ続けてくださっています。人生は、晴れの日も雨の日もありますが、雨の日こそ私が成長させていただける日なのかもしれません。

 

私を潤し、私を生かし、私を支えてくださる大いなるお心に包まれていたと知らされた時、生きるよろこびにも大きな広がりを感じます。雨の日には、生きとし生けるもののいのちが育まれる日、そしてこの私がお念仏に出遇う日と味わうことでありました。「澍法雨」というお言葉を大切にいただきたいと思います。

南無阿弥陀仏