テレホン法話_2014年         ℡ 083-973-0111

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2014.09.11〜20

「こころのよりどころ」

玖珂西組 月空寺 岸弘之

 

 突然ですが、4つの質問をしてみます。それに当てはまるかどうか考えて頂きたいと思います。

 

①まだ生まれていない人。・・・今ご覧頂いているということはすでに生まれておられますよね。

②年を取らない人・・・1秒たりとも老化していないという方はおられないでしょうか。

③病気になったことがない人・・・元気で病院の世話になったことはない方!歯医者や眼科はどうですか??

④すでに亡くなった人・・・今ご覧頂いているということは生きておられるということですよね??

 

 いかがでしょうか。1つでも条件に当てはまる人はお寺参りをする必要はありません。仏法は必要ありません。

この質問は、先輩僧侶から教えて頂きました。

 

 この4つの質問、皆さんに全部当てはまりますよね?

ということは仏法、お念仏はみなさんにとって不可欠ということの裏返しでもあります。

 

 4つの質問は、生まれる・老いる・病気になる・死ぬという生老病死の反対のことを表しています。仏教ではこの生老病死は苦であると説かれます。

苦とは、自分の思いどおりにならないことであり、誰もが抱えている苦しみですが、これは自分では解決はできません。

 

 これをすべて引き受けてくださったのが阿弥陀さまという仏さまです。

この苦しみを持ち合わせたことを見抜いてくださった阿弥陀さまは「あなたのその苦があるからこそ、決して1人にはしない、いつもともにいるから、一緒にいるからね。」と喚びかけてくださっています。その喚びかけこそ「南無阿弥陀仏」のお念仏であります。

 

生老病死どれも欠けることなく当てはまることをまざまざと知った質問でした。


2014.09.01〜10

「ただ念仏のみぞまことにておはします」

豊浦西組 大専寺 木村智教

 

 私が初めてお葬式の導師を勤めた話。数年前の大晦日にその報せを受けました。

亡くなられたAさんは糖尿病の治療のストレスのため身内と揉めました。身内は離れ生活保護を受けて一人で暮らしていました。喪主は遠い親戚の方が引き受けましたが、身内は他に誰もいません。臨終のお勤めからお寺に戻ると住職に頼まれ、正月明けにご自宅の仏間で私が導師をしてお葬式は勤まりました。誰も涙を流さない、私の声だけが響く寂しいものでした。

 その後荼毘に付してすぐ納骨しました。墓前で一人の民生委員の方がこう仰っていました。

「私がAさんの最期を看取りました。前の日の夜にお世話をして、〈おやすみなさい。良いお年を。〉と声をかけて帰ろうとしました。しかし返事がないことに気づいて、すぐに救急車を呼びましたが、そのまま息を引き取りました。もし家に帰っていたら間違いなく彼は孤独死してました。」と。

 

 「看取る人もなく一人きりで死ぬこと(広辞苑 第六版)」を孤独死といいます。

実は家族は居て当たり前なものではなく、看取ってくれる方がいることは稀なことで、独りいのち終わることこそ確かなことではないでしょうか。

だからこそ阿弥陀様は全てのいのちを独り子のように思い、その親になるぞという願いを込めて「南無阿弥陀仏」という声の仏となり、生と死を越えて私と寄り添うことを選ばれました。

 健康、財産、そして家族も全て失いこの生涯を終えたAさんはお念仏に出遇い、この世から巣立つままに、今私達に本当に大切なものはなにか、その生き方を通して問いかけています。そのことを初めての導師を経験して学びました。

だから、

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

(『歎異抄』 『浄土真宗聖典 註釈版 八五三・四頁』)」

と親鸞聖人が打ち明けられたおことばが、胸にずしりと響くのです。


2014.08.01〜10

「満天の星の夜に思う」

熊濃組 真光寺 米澤顕

 

 ようやく梅雨が明け、暑い夏の季節となりました。

先日、夕涼みに私の子どもを連れて近くの河原を散歩しました。

すると子どもが、「お父さん、星がいっぱい見えるよ!」と嬉しそうに教えてくれました。夜空を見上げると、満天の星が輝いていました。その満天の星に見とれていると、ふと、30年前の私が5歳だったときのある夏の夜のことを思い出しました。

 その夜、私は体調を崩し、母に背負われて近所の診療所へ行きました。

その夜も空が晴れ渡り、満天の星が輝いていてとてもきれいだったことが脳裏に焼き付いております。

 体調を崩し、体はしんどかったはずですが、なぜそのことがいまだに脳裏に焼き付いているのでしょうか。今振り返ってみると、私を背負ってくれている母の背中は、「温かくて、広くて、振り落とされる心配が一切ない」ので、安心しきってとても心地が良かったのでしょう。

ですから、満天の星を見る余裕が生まれたに違いありません。

 それから30年が経ち、満天の星を見ながらそのときの出来事を思い起こし、改めて親心の温かさをかみしめたことであります。親心は目には見えませんが、確かに子どもの身の上に働かれてあります。

 阿弥陀さまのお心は、温かく、そのお働きは広大無辺で、いつもこの私を抱き取っていて下さり、決して見捨てないと伺います。そのお心は目には見えませんが、南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって、私たちの身の上にいつでもどこでもお働き下さいます。


2014.07.21〜31

邦西組 浄楽寺 平石博樹

 

 先日、坊守のお父さんの右肩が急に痛むようになり、実家の与論島の病院では、なかなかなおらないということで、こちらにこられました。

病院で調べていただくと、腕の筋肉の筋がきれていました。医者からは手術もむずかしく、なるべく安静にしてくださいとだけいわれ。そして「こちらにずっとおられれば、注射や、そのあとの療養もできるのですが、もし機会があればこちらにまたきてください」と先生も手の尽くしようがありません。

 その後、せっかくですから子供も一緒に、近くのショッピングモールに、三人でいきました。しかし5歳の子供、じっとしていません。あちこち動き回り、目が離せません。

こちらの用事もと、考えているとお父さんが「ウフがついているからいいよ」といってくれました。ウフとは、与論の言葉で「おじいちゃん」ということで。「おじいちゃんがついてるから大丈夫だよ」といってくださいました。

そしてお父さんは、腕の痛みはありませんですが、つかれているのに子供のそばに行き見守ってくださいました。

 

 親鸞聖人は、お正信偈に、

「煩悩を断ぜずして涅槃を得」としめされました。

これは、私の方で煩悩をなくしてではなく、仏様が私を涅槃へとうまれさせてくださるということです。    

子供は、危ないことを危ないと知らずに、どこへでも行きます。お父さんもついていくのに大変でしたが。「ウフがいるよ」とずっと子守りをしてくださいました。危ないからこそどこまでも見守ってくださったのです。     

 私たちも煩悩をかかえ、さまざまな業縁のなかで、なにをするかわからい私です。

煩悩はいいものではありませんが。その私たちを仏様は、この病院にこなければ手のつくしようのない、こちらにこいということではなく。どうあっても、どこにいようとも私によりそい守って、そのまま仏様にしようと働いてくださっていました。

その仏様が耳に届いてくださるのが、南無阿弥陀仏です。


2014.07.11〜20

「 ひ び き を き く 」

岩国組 浄蓮寺 樹木正法

 

 真宗大谷派の学僧、金子大栄先生の「宗祖を憶ふ」という親鸞聖人を讃えられる詩の中に

「聖教を披くも文字を見ず、ただ言葉のひびきをきく」

という一節がございます。

聖教とはお経さまのことです。親鸞聖人は、そのお経の文字面に表された内容にとらわれることなく、如来様の真実まことのご本意をご自身にひびかせ、ただただはからいを雑えず、そのまま如来様のお心を聞き開かれたのだ、とおっしゃられていると伺います。

 

 ものがひびくときとはどのような時でしょうか。

例えば、太鼓はよくひびくように造られています。これは中を空洞にすることで音がよく反響し増幅するようになっているからです。逆に太鼓を叩くバチはしっかりと中味が詰まっています。これが中味がスカスカのもので叩いたところで太鼓はひびきません。

また、たとえ中味の詰まったバチで叩いても、太鼓の中味が詰まっていてはこれもひびきません。

 

 真実の「実」とは果実のように中味がギュッと詰まったものを意味します。その真実なるものがひびかせることができるのは、中味が空っぽになっているものです。自らの方にまこと心らしきものを持ち込んで、自分勝手に中味を詰まらせているものにはひびきません。

まこと心をこちらに持ち込まず、己を空しくし、如来様の「必ず救う」という真実のみ言葉をそのまま「まこと」と受け取るものにこそ、そのお心は己が身にひびき渡り、声にはお念仏となってひびいてゆきます。

 

親鸞聖人は、『正像末和讃(愚禿悲歎述懐讃)』に

「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 

虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」

と、ご自身のすがたを歎かれておられます。

しかし自らを「虚仮不実」、すなわち虚偽にあふれ空っぽであると見通されたことは、真実に出遇われたおすがたでもあり、如来様の真実がひびいたすがたでもありました。

それは救いにあわれた喜びでもあったに違いありません。


2014.06.21〜30

「天国でなく、お浄土」

防府組 万巧寺 石丸涼道

 

 私たちの宗教は浄土真宗と申す宗教でありますが、この宗教は南無阿弥陀仏のお念仏を聞いていくという宗教です。どのように聞いていくのか、阿弥陀さまという仏さまが南無阿弥陀仏となって下さって、今私の身に満ち満ちて下さり、この口を使って南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏として出て下さる。この耳に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と響いて下さる。この如来さまが今ここにいらっしゃるんだよ。そしてこの私の人生が終わるときには、この身に入り満ちて下さった如来さまが、私をそのままお浄土まで連れ帰って仏として下さるんだよと聞いていくという宗教です。

 

 でも、こんなことを言う人がいますよ。

「お浄土があるっていうのは分かったけどね、何でお浄土じゃなきゃいけないの?同じ行くなら天国でもいいじゃない」

でも、そんな方に聞いていただきたいお言葉がありますよ。

「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」

 これは浄土真宗の宗祖、親鸞聖人さまがお示しくださいました、『親鸞聖人御消息集』の一節です。

仏教でいただいていく天国というのは、そんなに簡単に行けるものではありません。十善という非常に難しい行に励まなければならない。でも、問題はもっと別にあります。

 天国というのは、皆がいけるというところじゃないということです。たとえ私が天国に行けたとしても、私の周りの大切な人たちが同じ行を積んで天国に行けるとは限りません。大切な人たちと必ず離ればなれになっていかなければならないのが、私たちの人生なんです。

 その私たちをご覧になって、涙を流して下さったのが私たちの如来さまです。

「そうか、おまえは大切な人たちと離ればなれになっていかなければいけないのか。辛いな、悲しいな。よし分かった。おまえが大切な人たちと会えるお浄土を作ろう」

と御誓い下さいました。

その如来さまをいただいた親鸞聖人さまが「もし、先に参ったとしても待っているよと言えるのがお浄土だよ」とお示し下さっています。

 その如来さまが名となり声となり届いて下さっているのが南無阿弥陀仏ですから、大切な人に「離ればなれじゃない。お浄土で待っているよ」と言っていけるのが浄土真宗のご法義であります。

 尊いことであります。


2014.06.11〜20

落ちていける命

美祢東組 明楽寺 秋里大勝

 

 先日車を走らせていると、あるお寺の伝道掲示板に「大地ありて つばき落つ」という法語が書かれているのを拝見いたしました。ご存知でしょうが、椿は枯れると花だけが落ちます。椿の花が枯れて落ちていけるのも、それを受け止めてくれる大地があるからです。

大地に落ちた花は、いづれ大地そのものになっていきます。大地そのものになるということは、残る者を育むものとなります。

 

 親鸞聖人様は、お浄土を大地としばしばお味わいになっていらっしゃいます。私達人間の境涯は、死という縁に触れ必ず終わっていきます。その私達の命を「死んで灰になって終わるような命にはしない」と願われた方が阿弥陀如来様です。

そして長い時間のご苦労をくださり願いが願い通り仕上がったのが南無阿弥陀仏の六字のお名号です。口に出せばたった六字ですが、その六字の中に阿弥陀如来様の命の全体が封じ込められ、わたしの命に宿ってお呼び声となっておはたらきくださってあります。

「まかせよ 何があってもかならずお前をそのまま救うぞ」とのお呼び声であります。

 阿弥陀如来様のお心をお聴聞させていただいている私たちは、この私の命を全てお引き受けくださる阿弥陀如来様のお浄土があるからこそ、強く明るく生き抜いて、感謝のうちに安心して終わっていける人生を歩んでいけるのです。そしてこの私が仏となり、残る者を姿は見えずとも大地となって育み、導いていく尊い命であるということを知らされていくのです。

 

 阿弥陀如来様のお心をお聴聞させていただく、それは私達が安心して阿弥陀如来様の大きな大きなお慈悲の願いの中に、この私の命が落ちていくということに気付かせていただくということ、そして生まれさせていただいたお浄土では有縁の方々とまた会える、そういった世界が広がっていくのです。共々にお念仏相続させていただき、ご恩報謝の生活を送らせていただきたいものであります。

口称


2014.06.01〜10

「恩は深まるもの」

周南組 真行寺 佐々木大乗

 

 この世間には恩返しという言葉があり、「世話になった方には恩返しをせにゃぁのー」などと、大変大切なことのように使われておりますが、私はこの御法義を聞かせていただくようになって、この言葉がそこまで良い言葉には思えなくなりました。

 

 数年前に、あるお寺の友人の結婚式に参列させていただいたのですが、その披露宴での新郎の最後の挨拶の中の一言がとても印象に残っています。

その挨拶はこんな言葉で始まりました。

「恩返しは出来ません。親孝行も出来ません。何一つ返すことなど出来ない二人ですが、これから子供を授かりその子を育てていく中で、一体親がどのような思いでこの私を育ててくれていたか。それを夫婦二人で味わわせていただきたいと思います。」

とても有り難く、そして気づかされたことでありました。

 確かに子が親に対して感謝の思いの中で贈り物をしたりする、もちろんこれは尊いことでありましょうが、そういうことだけで今までの全てを返せたということにはならないはずです。返しても返しても、返しきれない程のご恩がそこにはあるのではないでしょうか。

 

 今阿弥陀様は、一切の見返りを求めず、只々この私を一人子の如く包み込んで下さっています。

そんな阿弥陀様を聞けば聞く程に、そうでありましたか、それほどにご苦労下さったのですね。有り難うございます、有り難うございますと、私達はそのご恩に感謝させていただくばかりであります。

 恩というものは、決して返せるようなものではなく、むしろ知れば知るほどに、時がたてばたつほどに、深まるものではないでしょうか。

親の恩というものは決して返せるようなものではないからこそ、私達の一生涯が御恩報謝の日暮らしであります。


2014.05.21〜31

熊毛組 光照寺 松浦成秀

 

 ある御法事が終わったあとで、御門徒の方からこのような質問をいただきました。

その御法事では、お経様をいただいて、お取り次ぎをさせていただいたあとで、蓮如上人が私たちのためにお示しくださいました御文章の末代無智章をいただきました。その中の一節がその御門徒さんには気になったそうです。

 

 末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏とふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。 これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。

 かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 この末代無智章の「たとい罪業は深重なりとも必ず弥陀如来はすくいましますべし。というのは、私にとってはなかなか納得できにくいですな。悪いものも良いものも救われるということですよね?」とおっしゃられました。

そうです、納得し難いご文です。テレビで報道されるあいつほど、私は悪いことをしていない。

少しは、良いこともしているし、、、誰もが自分のことを善人と思いたいし、悪人とは思いたくありません。

ですからこの、たとい罪業は深重なりとも必ず弥陀如来は救いましますべし、という阿弥陀如来様の目当てが、悪人であるこの私とはなかなかいただけません。

 歎異抄の後序に弥陀の五劫思惟の願をよくよくあんずればひとえに親鸞1人がためなりけり、さればそれほどの業をもちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよとおっしゃられています。

阿弥陀如来が五劫もの長いあいだ思惟しなければ救いの道が見いだせなかったほど、それほど深い底なしの罪業を持っている親鸞なのに、お見捨てなく助けようと思いたたれた本願であったとは、なんというもったいないことであろう、と喜ばれました。

 

 浄土真宗の信心は機法二種の深信に言い尽くされています。

自身は罪悪深重の凡夫であって生死を超えていく手がかりさえないものであると決定的に信じ、阿弥陀仏の本願力はこのような取り柄のない凡夫を救うて必ず浄土へ生まれしめたまうと本願力にまかせられることです。

だからこそこのわたしが救われるのでありました。

南無阿弥陀仏


2014.05.11〜20
「降誕会」
豊浦西組 蓮行寺 村野晋哉

 

 5月21日はなんの日かご存知でしょうか。
 親鸞上人の誕生日で、降誕会という法要が各お寺で営まれます。
 漢字には、それぞれ意味がありますが、誕という字は嘘、偽りという意味があり、嘘、偽りの世に生まれることを誕生というのです。
 小さな嘘、大きな嘘、嘘にも色々有るでしょうが、物事を円滑に進める為に、時としては必要な嘘も有るでしょう。
 入院のお見舞いに行き、「お元気そうでなによりです」と声をかける事が有りますが、体調が悪いから入院が必要で有り、決して元気なはずは無いのに、そう声をかけてしまった経験がありませんか。

 私の心で思った事を、全て言葉に表したなら、周りの方に嫌な思いを与えたり、時には衝突することも有るでしょう。
親鸞聖人は『歎異抄』に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とおっしゃってます。
私たちは、親鸞聖人より、後に生まれさせていただき、お念仏にであわせていただきました。
 嘘、偽りだらけの世に、真実を伝える為に、真実より降りてきて下さり、私たちを真実に導いて下さられたお方が親鸞聖人です。
ですから、誕生会といわずに降誕会というのです。


2014.04.21〜30
慈悲
下松組 専明寺 藤本弘信

 私が小学校4年の頃、友達とお祭りに行く約束をして、そのことを母親に伝えると
「そう、気をつけていってらっしゃい。7時までには帰ってくるんよ。じゃないと家にいれんけーね」、「はーい、ちゃんと帰ってくるよ」と適当に返事をして、家を飛び出しました。

 夜のお祭りに初めて友達と行くことが出来た私は、何もかもが輝いて見えました。何をするにも楽しく、時間は光のように早く過ぎていきました。
少し時間が気になり時計を確認してみると、そろそろ帰らなければいけない時間でした。友達を見ると、まだまだ帰りそうな雰囲気ではありません。心のなかで「そろそろ帰ることを伝えなくちゃ」
と思いながら、もっと遊びたいと思う心が強くなっていきました。目の前に光り輝く露天や、たくさんの人々、そして友達が目の前にいるのに先に帰ることは出来ませんでした。「7時までには帰ってくる」という言葉を、「7時には会場から帰る」という無理やりと思える解釈を自分に納得させて、両親の事は考えないようにしました。

時間はあっという間に過ぎて、お祭り会場をあとにして、急いで家路に帰りました。
家の近くまできて、ホッと安心しました。
「まだ家の明かりがついてる。こっそり入ろう」と玄関のドアに手をかけましたが、鍵がかかって入れませんでした。どうしようかと思いましたが、どうせ怒られるんだからと呼び鈴を鳴らして、家に入れてもらおうとしました。
出てきた母親に「遅かったね。楽しかった」と言われ、家にいれてもらえました。

 お経の中で、第十八願に「唯除五逆誹謗正法」と言われたお心は、「決して衆生を見捨てない」という強い誓いの表われでした。除かれるのではなく、私を救いたいという親の心でした。

「7時までに帰ってこなければ、家に入れない」という言葉の裏側には、私の事を心配し、夜の輝く露天に心を奪われ、私に危険が及ばないようにと見抜いたことでありました。今更ながら気づくことですが、子供の頃には全く気づきません。

必ず救うと誓われた阿弥陀様の救いの目当ては、この私でありました。いつでも・どこでも・だれにでもの救いのは、他のだれでもない、今・ここで・私に向けられたお慈悲いっぱいに包まれた働きでありました。


2014.04.11〜20

筑波敬道

 

 早いもので今年も既に三分の一を終えようとしています。平成26年が始まり今日まで皆さんは、どのような日々を送られたでしょうか?順調でしたか?「順調でした」と言われる方もおられれば「なかなか思い通りにはいきません」と様々な意見があると思います。
 この「順調」という事は何を基準に「順調」「不順」となるのでしょうか。私達は新年などの節目に、様々な図を描いていくのだと思います。「健康でありたい」「商売繁盛」「家族円満」それぞれ自らが描いた図が思い通りになれば「順調」であり、それが叶わなければ「不順」ということになるのでしょう。
 しかし、本願寺第八代宗主蓮如上人の『御文章』一帖目第十一通には
「まことに死せんときには、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず」
とあります。

どれだけ自らの描いた図の通りになっても、愛しい妻や子、築き上げてきた財産、地位や名誉は連れて、持って命を終えていくことは出来ないと厳しい言葉で教えてくださいます。それは、世間の事はたとえ全てが順調であっても、私自身の命の問題の解決がされていなければ空しい人生と言わざるを得ないでしょう。生活の為には多少のお金は必要でしょうし、健康であること、家族が円満であることを否定しているのではありません。それらを願うのは私も同じです。しかし、世間の事よりもっと大切な事は何なのか?世間を超越した聞くべきものを聞いているか?もう一度、自分自身に問うてみるべきだと思うのです。
 この空しく人生を終えようとしている私をこそ特に哀れんで阿弥陀様は、どうかお願いだからお念仏を申す人生を歩み、我が国浄土へ生まれると思い受け止めて下さいと私にはたらき続けていてくださいます。どこまでも私の事を心配してくださる方がいてくださいます。私が私の事を思うよりも強く、そして温かく包んでいてくださる方がいてくださいます。その方のお名前を阿弥陀如来というのです。
(それを私達に教えて下さった方が親鸞聖人でした。)


2014.04.01〜10
「ありがとう」と言える
熊毛組 蓮光寺 阿部智史

 私が子供のころ、祖母がお土産を買って帰ってくれました。目の前に差し出してくれているので、手を伸ばし受けとろうとしましたが、祖母はいっこうに手を離してくれません。美味しそうなまんじゅうでしたから渡す段になっておしくなったのかと思い、祖母の顔を見ると目が合い「ありがとうは?」と一言。ありがとうも言わずにお土産を貰おうとしていました。親しき仲にも礼儀あり。遅ればせながら「おばあちゃんありがとう」と言うと、手が離れお土産を貰うことができました。ありがとうと言わなければお土産をあげないという話ではありません。お土産を買ってきてくれたのは、ありがとうと言える孫に育ってほしい一心で、ありがとうと言えるよう事前に貴重な時間を割いて、事前に重たい荷物も下げて帰って来てくれたのです。
 『南無阿弥陀仏』は「ありがとうございます」の感謝の念仏とお聞かせいただいております。阿弥陀様の助けるはたらきが、すでに私のところにいたり届いているので「助けて下さい」とお願いする必要がありません。私のはからいをあてにしない、他力の先手のお手回しがあるから、今ここに必ず救われていく身であることをお聞かせいただくばかりであります。そこには「ありがとうございます」とお念仏申さずにはおれません。


2014.02.01〜10
「愚かになって救われる」
宇部小野田組 明照寺 岡原弘和

 親鸞聖人のお師匠様、法然聖人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と仰いました。

「愚か者、バカになって救われるのが阿弥陀さまの宗教なんですよ」ということです。
世間においては賢くなること、善い行いをすることが好ましいことで、愚か、バカといったことはむしろ嫌厭される言葉です。ですから世間とはよほど違うことを言っているわけです。
 人は賢くなると何事も理解して納得しようとします。そこに自分の思いはからいを交えるので聞くことが下手糞になります。例えば人が意見した時に「でもやっぱり」と返事して話しだす人は賢い人です。相手より賢くなったので聞こえた内容が飲み込めない人です。
 浄土真宗は阿弥陀さまのお救いを聞く宗教です。
阿弥陀さまは自己中心的に生きるこの私をご覧になって真らしいものはどこにもない、全く当てにならないと見抜かれました。そして「お前をそのまま救うよ」と全く当てになる、間違いのない南無阿弥陀仏の名の声となってお出まし下さいました。このお救いに私の「でもやっぱり」はいりません。阿弥陀さまより賢くなってはいけません。愚か者、バカになってお念仏するのが私が仏になる教え、浄土真宗であります。


2014.01.11~20
「往生浄土」

美祢西組 西教寺 青木香雄

 本日は、「往生浄土」についてお取継ぎさせて頂きます美祢西組西教寺 青木香雄です。
親鸞様が残された浄土真宗のみ教えですが、3つの大切な言葉があります。1つめは他力本願。2つめは悪人正機。3つめに往生浄土があります。その中で本日、往生浄土についてお話させていただきます。
この言葉の味わいとして、今生命が尽きた時には必ず仏様の国お浄土の世界に生まれさせていただき仏様へとならせていただきますよう。仏様にならせていただいたなら、お浄土の世界に留まることなく、残された私たちのことも導いて下さる仏様へとならせていただきますようというのが、往生浄土というお言葉の味わいです。
 では、このことについて以前こんな話を聞かせていただきました。
お寺の総代さんをしてくださったご主人がいらっしゃるお宅へお参りに行った時のことです。そこの家は数年前に奥さんが亡くなられ、息子さん夫婦は都会の方へ出られているので、普段はご主人1人で生活をしているご家庭です。
ある年お盆のお勤めに行ったとき、息子さん夫婦がお盆ということで帰省しておられました。普段はご主人1人ですが、その時は大人数でお勤めしました。お勤めが始まってしばらくすると、そこに3歳のお孫さんがいて、その子がお勤めの間ご院家さんの横に来ては、お勤めの様子を見ては、お母さんの方へ戻ってと、お勤めの間ゴソゴソしていたそうです。お勤めが終わったあと、お茶を頂きながらいろいろとお話を聞かせていただきました。3歳のお孫さんにとって普段都会の方で生活をしているのでお仏壇が家にない。また、なかなか田舎に帰ってくることも少ないのでお盆ということもあり、ご先祖様の話、特に数年前に亡くなったおばあちゃんのことを聞かせていたそうです。いろいろと話を聞かせていただきながら和やかに過ごしていると、突然3歳のお孫さんが「おじいちゃんはいつ死ぬの?」と言ったそうです。
 まわりにいた皆さんはビックリして、特にお嫁さんであるお母さんは口をふさぐようなことでしたが、1度でた言葉でありますので冷や冷やしながらしていると、お寺の総代をして下さったおじいちゃんが、優しくお孫さんに話をしてくださいました。
「おじいちゃんはいつ死ぬかわからないけど、おばあちゃんがお参りしているお浄土の世界に参らせてもらうんよ。お浄土にお参りしたら今度は、坊やが手を合わせなんまんだ仏ってお念仏する中に、いつでもどこでも見守ってあげるからね」と、声をかけてくれました。
 このお話を聞かせていただきならが、ふと思うに、最近生活する中で「仏教なんて関係ないとか必要ないとか、私は無宗教ですよ」と言われる方がいらっしゃいます。しかし普段生活する中で仏教が直接必要ないと思われるかもしれませんがこの人生を生き抜く中において仏教の有難さ・尊さをお互い様に味わさせていただきたいものです。
 それは、この人生死んでおしまいの人生ではなかった、この人生尽きたときには必ず仏様へと成らせていただく人生が今ここに開けているということ。それは、この命が次の代へとつながっている命。また今私が生きているのも先祖代々の命のつながりによって生かさせてもらっている命であったと。この命は私1人だけのものではなく、過去から現在。現在から未来へとつながっている命を今ここに生かさせてもらっている。
 本日頂きました「往生浄土」というお言葉の中にいのちのつながりを味わさせていただくひと時となっていただければと思います。