テレホン法話 2021年   TEL:083-973-0111


2021年4月21日〜30日

覩見

美祢西組正隆寺 波佐間正弘

 

娘が生まれ5ヶ月が経ちました。生まれた時に病院からいただいた帽子は今ではかぶることができません。服のサイズも50というサイズを買ったかと思えば入らなくなり、60も小さくなり、70というサイズが合うようになってきました。寝ているだけであった子が今では座ったり、離乳食を食べるようになりました。日々移り変わる子どもの姿に諸行無常の理を聞かせていただいておることであります。

新型コロナウイルスが流行してから外出することがなくなりました。必要なものだけを人の少ないお店に買いに行きます。

この度子どもの服のサイズが合わなくなってきましたので、久しぶりに県内のデパートに行きました。私は服などには疎いので、選ぶのはほとんど連れ合いに任せます。

お目当てのお店に着くとたくさんの子ども服が並んでいました。もう着ることのできない新生児のものや、まだまだ大きすぎるサイズのものまでいろいろなものがあります。

いろいろなものがあるのだなと歩いていると真剣なまなざしの連れ合いを見つけました。

連れ合いはまず今の娘にピッタリのサイズを確認し、服の見た目はもちろん使われている繊維やどんな使い方をするのかということまで細かく見ていました。

子ども服を見る前についでと思い、私の靴下を買いに行きました。そこで「どれがいいと思う?」と聞くとさっと見渡し「これ!」とすぐに決まりました。

わが子のために選ぶ時とは大きな違いがあるのだなと思いました。

この連れ合いの姿を見ながら「仏説無量寿経」の中に説かれている阿弥陀様のこと思い出しました。

阿弥陀様はお浄土を建立される時、二百一十億という膨大な数の仏さま方の国をご覧になられました。なぜこんなにも多くの国をご覧になったのか。それは私の生まれるお浄土に対して一切の妥協ができなかったからでしょう。最高のお浄土にするために隅々までご覧になられたのでしょう。

自分のためにではなく、私のために長い長い時間をかけ、善いものを選び、悪いものは選び捨てて最高のお浄土を仕上げてくださいました。どこまでの私のためと願ってくださるのが阿弥陀様であると味わわせていただくご縁でありました。南無阿弥陀仏。

 


2021年4月11日〜20日

「いつか」ではなく「いつでも」

華松組西光寺 佐々木世雄

 

2年程前。友達の結婚式で長野に行きました。久しぶりに会った仲間達と夜中まで懇親を深める中で、タイムカプセルを残そうということになり、手元にあったiPadに一人一人、未来の自分に向けて話を始めます。その中で友達の一人が「最近、人はいつか死んでいくのではなくて、いつでも死ぬ存在だとつくづく思う。未来の俺、『いつか』ではなく『いつでも』死ぬと思って大切に命を生きていますか?」というメッセージを綴りました。学生時代のふざけた様子もなく、いつになく真剣なその言葉とトーンに、集まった宿の一室で一瞬トキが止まりました。

友達は放送関係の仕事につき、ディレクターとして世界を飛び回りながら、社会で巻き起こる様々な問題を取材しています。会うといつも、何か面白い情報がないか、ネタがないか、お坊さんの世界はどうなの?と四方八方にアンテナを貼り、本を読み漁り、貪欲に情報を吸収租借しながら視聴者に訴えかける何かを探していました。

深くは聞きませんでしたが、取材を進める中で世の中の不条理、貧困、病気、死について、ありとあらゆる人々の苦悩や理不尽さを目の当たりにしたのだと思います。そして、人は「いつか」死ぬのではなく「いつでも」死ぬというのは、様々な事象をその目で見て聞いて、実際に肌で体感したからこそ紡ぎ出された言葉だったのでしょう。

15年後くらいに集まって見ようかと、ワイワイ撮り始めたタイムカプセルでしたが、考えてみれば将来全員が集まれる保証はどこにもありません。今、当たり前ではない命を恵まれている。ご法話で幾度となく聞かせていただいた言葉でしたが、改めて気付かされました。仏様の教えは、友達の言葉にも、何気ない日常にも、ウイルスの世の中であっても、実はありとあらゆる所に満ちているのですね。

 

諸行無常の理の中で、ただ今の一瞬一瞬を尊く思えた、有り難い夜でした。

 

 


2021年4月1日〜10日

愚痴のすがた

宇部小野田組西秀寺 黒瀬英世

 

仏教には「諸行無常」という考え方があります。皆さんもその言葉を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。その意味は、「すべてのものは移り変わり、変化していく。」ということです。「諸行無常」とは仏教が仏教である証であり、「諸行無常」を説いていない教えは仏教ではない、と言われるほど大切なみ教えです。

今年の桜の開花は例年より少し早めだそうです。私たちは散りゆく桜を見て、「ああ、桜とはなんと儚いものだなあ」と、そのすがたを通してこの世の無常を感じます。たしかに散りゆく桜は、私たちにものの儚さや移り変わる世界の様を感じさせてくれます。しかし、仏教で説かれている「諸行無常」は、散りゆく桜の儚さのみを表現して「無常」と説いているわけではありません。

私が今このご法話を収録しているのが三月の半ば頃なので、今の山口県の桜は五分咲きくらいです。ですから皆さんがいま収録されたこのお話を聞いている頃には、満開の桜か、もしくは花が散り始めている頃かもしれません。それも「無常」なのです。

それなのに、私たちは「無常」と聞くとどうしても寂しさのようなものを感じがちです。しかし、「諸行無常」ということに私たちの感情は関係ありません。私たちがどう思おうが「諸行無常」はこの世界の真理なのです。それにもかかわらず、私たちはその真理を自分の感情を通して見てします。感情を通して真理を見ることは、「これに関しては変わってほしいけど、これは変わってほしくない。」と自分本位な見方で真理を見ることです。つぼみの桜の時は、早く花が咲いてほしいと願い、花が咲けばいつまでも散ってほしくないと願う。

そんな私たちのすがたを仏教では「真実の道理に無知なすがた」として「愚痴」と表現されます。

そんな愚かさを見つめていくのもお聴聞の一つのかたちです。これからもともどもに聴かせていただきましょう。

 

 


2021年3月2日〜31日

 

美祢西組西音寺 川越広慈

 

今年も3月11日がやってまいりました。今年で震災から10年です。

毎年、この時期になりますと様々なメディアを通して東日本大震災の特集が組まれます。地震が起きた当時に自分が何をしていたか、みなさんもよく覚えていらっしゃるのではないでしょうか。

 

私は当時、大学生だったのですが、地震が起きる前日の3月10日から自動車免許を取るために石川県にある自動車教習所にいっていました。教習所と言っても朝から晩まで講習で詰まっているわけではないので、暇な時間がとても多かったです。私はお昼ご飯を食べてから夕方まですることもなかったので映画を見て過ごしていました。石川県でしたので地震に気づくこともなく、お昼3時過ぎくらいまでゆっくり映画を見ていました。映画を見終わってテレビのチャンネルをまわしていると、どのチャンネルでも衝撃的な映像が流れていました。そこでようやく地震が起きたことに気が付いたのです。しかし、震災が起きたことを知ったからにはぼうっと映画を見てはいられません。ニュースにかじりつき、インターネットなどを通して、当時住んでいた東京がどうなっているのか、友だちは大丈夫か、いろいろな情報を調べていました。

震災を知らなかった時のようには過ごせなかったです。

 

今わたしは、阿弥陀さまのお話をお聴かせいただいていますと、お念仏をもうさずにはいられない身となってきました。

阿弥陀さまが私のために、南無阿弥陀仏、必ず助ける、我にまかせよという名のりとなって今至り届いてくださっています。私を間違いなく救う仏さまになってくださっているのです。「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまのお慈悲の喚び声を聴かせていただいていますと日々の暮らしが変わってまいりました。こうしてご縁をいただき、今「南無阿弥陀仏」とお念仏もうす生活を送らせていただいているのです。

 


2021年3月11日〜20日

阿弥陀さまのお心に学ぶ

須佐組浄蓮寺 工藤顕樹

 

 私が自坊へ戻ってから、早いもので五年の月日が経ちました。

 妻と二人の娘を連れて田舎へ帰った当時、ご門徒さまを始めとする多くの方々からお言葉を頂戴いたしました。

「よう帰ってきちゃった。お陰で須佐の人口が四人も増えたわ!」

とユーモアを交えながら喜んでくださいました。

 あれから五年……もしも帰省するタイミングが去年・今年だったなら、はたしてみんなは喜んでくれたのだろうか?

 長引くコロナ禍という状況を鑑みた時、ふとそのようなことを考えてしまいます。

 

 昨年は初盆や年忌のご法事に関して、県外に住む子・孫の帰省についての是非を尋ねられることが多くありました。

 

「今度の法事には帰りたい」

という子供の申し出に、

「こういう状況だからね……」

と断りを入れたものの、果たしてそれで良かったのか判断に自信が持てないということでした。

「帰りたい」という思いと「もし感染したら」という不安とが交錯して、その判断をお寺に尋ねたいうことでした。

「こういう状況なので、帰省は控えられた方が良いと思います。感染症が落ち着いた段階で、改めてご法事をされても全然問題はありませんよ。」

と卒なく答えましたが、

「そうですよね……」

と寂しそうに呟かれたお姿が印象に残りました。

 

 後から考えてみれば、とても帰省が難しい状況は子供たちも十分承知だったと思います。それでもあえて「帰りたい」と吐露した背景には、「会いたい」という思いがあったからなのでしょう。

 帰りたくても、帰る場所がなければ帰り様がありません。「おかえり」と迎えてくれる人がそこにいるから、帰りたくもなるのでしょう。そのことによって、たとえ周りから非難されても、自分を受け止めてくれる存在がいてくれるから、そこへ気持ちが傾く衝動に駆られることは致し方のないことだろうと、私は思います。複雑な葛藤の中にあっても、その気持ちを汲んだ上で「よう帰ってきたね」と笑顔で迎えてくれる存在が親なのでしょう。

 理屈でどれだけ自分を納得させても、理屈だけで生きていけるほどの覚悟を、ほとんどの人間は持ち合わせてはおりません。

 

 阿弥陀さまの「智慧」は、そのような私のありのままを見抜いてくださいました。それはそのまま、理想と現実の狭間で揺れ動く歪な私の本性を教えてくださいます。その私の有り様を他人事として黙認することができないというお心を「慈悲」というお言葉をもって教えてくださいます。

 この「智慧」と「慈悲」とが絶え間無く、ひとつ「いのち」の上に「いま」用き続けてくださる相を阿弥陀と申します。

 気を張って、精一杯の理論武装をして、コロナに負けてなるものかと意気込む私に、「もっと胸を張りなさい!背筋を伸ばしなさい!前を向いて!前に進んで!もっともっと」と叱咤する訳ではなく、ただ「しんどいね、辛いね」と、そうお声がけくださるのです。それだけです。

 しかしそのたった一言があるだけで、人はそこにひと時の安心を覚えるのではないでしょうか。

 

 阿弥陀さまのお言葉に帰っていける身にお育ていただいた私は、いま目の前にいるお方にどの様な言葉をかけていけるのでしょうか?

 お互い様に意識をして生きたいことであります。

 

合掌

 

 


2021年3月1日〜10日

人間の親とおやさま

下松組光圓寺 石田敬信

 

 長い間、うつ病に悩んでいた男性がいました。彼がうつ病を発症したのは高校生の時でした。幼いころから父親に虐待されて、そのことからまぬがれるために勉強に励んだそうです。そして成績があがり、有名な進学校の高校に合格できました。その父親は合格を泣いて喜んだそうです。

高校に入ってからしばらくして、何も手がつかなくなり、睡眠もとれなくなりました。そこから20年、いろいろなカウンセリングをうけても完治することはなかったそうです。

 ある時、アドラー心理学という、今までと違うアプローチの仕方をするカウンセラーに出会い、うつ病を克服したのです。大まかな治療は、自分の本当の気持ちに向き合うということでした。父親からはひどい育てられ方をされたと認めながら、泣いて合格を喜ぶ父親をどこかでかばっていた、ということに気づいたのです。それが自己虐待というもので、そこから嫌なことは嫌だと感じ、不安な時うれしい時、自分の心の感じ方を自覚しながら、無理をしない生き方に変えていったそうです。

 このアドラー心理学は、少しだけ仏教的な考え方に似ていると感じました。幸せでも不幸でもその選択をしているのは他でもない自分というところや、過去を悔み、過去のトラウマに目を向けて生きるよりも、その過去をどう意味づけして今を大切に生きるかが重要というところ、他者と自分を比べて争い何が足りてないかにこだわるのではなく、自分に与えられたものを活かしていき、自分を認め自分を大切にすることによって、他者を敵と見ず、仲間と感じることで生きやすくなる、といったところです。

 真宗のお救いは今です、今阿弥陀様に包まれていて安心の中を、自分のできることをその恩に報いてさせていただくのです。阿弥陀様に出逢ったことで、過去がすべてそのための過去であったと転換されていきます。私だけの人生や無駄な過去などなくなるのです。悲しい出来事も暗い過去も阿弥陀様によって、意味が変わっていかされていきます。敵とおもっていた人も嫌いな人も、そこに導いてくれた人に変わります。善知識とお同行は、同じ阿弥陀様に包まれた仲間です。

 心理学において親は重要な存在です、親の愛情を受けて自己受容、自己肯定ができるようになります。しかし親も煩悩を抱えた存在です、間違えたことをすることもあります。彼のように親によって苦しい生き方になってしまう人も少なくないと思います。

 阿弥陀様はすべてのいのちあるものの親さまです。自己中心的な煩悩ではなく、すべての人を救いたいという仏の智慧と慈悲をもって、長く永くお考えになられ、強い親心で私の永遠に壊れない幸せを願って、南無阿弥陀仏と、しあがってくださいました。そのおこころを、そのまま素直に聞きうけることが、極上の安心の生き方です、生かされ方です。聞きうけるようにお育てくださるのも阿弥陀様なのです。私の選択ではないのです。 (参考「嫌われる勇気」「僕が僕であるためのパラダイムシフト」)

 


2021年2月21日〜28日

弥陀の喚び声

華松組安樂寺 金安一樹

 

 私はお坊さんになる前、鉄道会社で車掌として働いたことがあります。列車の最後部で「次は博多~」とアナウンスし、お客様対応するあの人です。働いていると、事故など異常時に遭遇し、ときには数時間車内に閉じ込められたこともありました。

こんな時、車掌は本当に大変です。忙しいから大変ではなく、お客様と同じように、車掌も何が起きているのか分からず、対応をしなければならないからです。おまけに乗車しているお客様は、時間通りに到着しない苛立ちと、いくら待っても運転を再開しない不安で、車内はまさに険悪な雰囲気になります。

そんな時はと、先輩から教えられたことがあります。「わずかに入る情報を、たとえ同じ情報であっても、こまめにアナウンスすること。今こういう状況です。何時の運転再開を目指していますと。お客様は、今自分が置かれている状況やこれからどうなるのかを聞くことで、目的地に着くために動いてくれているのだと安心することができるからだぞ」と教えてくれました。実際にこまめにアナウンスをした時と、怠った時ではお客様の様子が驚くほど違うのです。

人生でも、なんでこんなことが起きるのだろうと思わぬ異常時に遭遇することがあります。「いま私は何をしているのだろう。何のために生きているのだろう。」と、現実に迷い、向かうべき方向性も見失い、不安が増幅して、悪循環が生まれていく。そんなとき、常に自らを喚び覚ましてくださるものに出遇っているか、いないかでは大きな違いがあることでしょう。

阿弥陀様は、迷いの中にいる私の現在地を知らせ、向かうべき目的地はお浄土と、私を喚び覚ましてくださる仏さまです。「なんまんだぶ」とお念仏聞こえてくるところに、不安の真っ只中でも私のためにはたらき続けてくださっておると知らせ、安心を与えて下さるのです。

 

 


2021年2月11日〜20日

 

豊浦西組大専寺 木村智教

 

 『親が死ぬまでにしたい55のこと』という本に「親とメールをする」と題して30代の男性が寄稿していました。ある日彼は一人暮らしの母に携帯電話を贈ります。「いつでも連絡が取れる」と母は嬉しそう。しかしメールを送っても返事が来ない。「送り方がわからん」と母。何度も教えたが一度も返事は来なかった。その後、母は急逝し携帯電話は遺品に。そのメールを見ると宛名はすべて私宛。下書きを遡るとひらがなで「けいたいでんわ ありがとう。めえるはたいへんです。あたまのたいそうみたい」。文字を打つ母の姿を想像し「メールの送り方をそばで教えてあげればよかった」と涙が溢れて止まらなかった。 筆者は振り返ります。

筆者が思い浮かべたのはただメールを打つのに悪戦苦闘する母の姿ではありません。その姿を通して私一人への思いを受け止めたのです。その思いに触れたからこそ嬉しさとともに「メールの送り方をそばで教えてあげればよかった」と悔やんだのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏」この六字に阿弥陀様の智慧と慈悲が満ち満ちています。南無阿弥陀仏と声に出して聞くままに「大丈夫だ心配するな。私が助ける」と阿弥陀様が告げてくださいます。その偉大なるお慈悲を源に、「嬉しい」と「恥ずかしい」が交わる世界がひらかれます。そのことを先年ご往生された梯實圓和上は「念仏者の人生はまさに慚愧と歓喜の交錯」とお示しくださいました。さあ共々にお念仏申しましょう。

 

南無阿弥陀仏

 


2021年2月1日〜10日

アシダカグモ

大津東組西福寺 和 隆道

 先日、私が家の廊下を歩いていますと、うちで飼っている猫が、何やら黒いものをおもちゃにして遊んでいるのが目に入りました。私は、「また何か余計なものを捕ってきたのではあるまいか」と思い、猫を追い払うと、そこには、猫によって殺された、大きなクモの死骸がありました。よく見ると、そのクモは、お腹のところに大きな白い円盤のようなものを持っており、それを抱きかかえるように足をたたんで亡くなっていました。「これは一体何であろうか」、気になった私は、インターネットで調べてみることにしました。

さて、私がネットで調べたところ、このクモは、アシダカグモという種類のクモであることが分かりました。足を広げると人間の手の平くらいの大きさになるとても大きなクモで、糸を張るのではなく、夜中に家の中を徘徊しながら、ゴキブリなどを食べて生活しているそうです。そして、私が気になった白い円盤状のものですが、これは卵嚢と言って、アシダカグモの卵がいっぱい入った袋なのだそうです。アシダカグモのお母さんは、お腹から出る糸を使って卵嚢を作り、これを口にくわえて肌身離さず持ち運び、卵がかえるその時まで、じっと待ち続けるのです。うちの猫に襲われた、このアシダカグモは、必死に我が子を守りながら、命を終えていったのでありました。

さて、『大無量寿経』という経典には、阿弥陀さまが私たち迷い苦しむ衆生のために、大変なご苦労をなさって、南無阿弥陀仏のみ教えを成就なされたことが説かれています。なぜ、そのようなご苦労をなさったのか、それは阿弥陀さまと私たちが親子だからであります。苦しむ我が子を捨てておけないのが親であります。「讃仏偈」の最後には、「たとい身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてついに悔いじ」とあります。アシダカグモのお母さんが、命をかけて我が子を守っていったように、たとえ我が身が毒の中に沈もうとも、かわいい我が子を救うことができるまで励み続けると誓われた阿弥陀さま、今そのご苦労が実って、南無阿弥陀仏のお働きとなり、私の下に至り届いて下さっておられるのです。私たちは、南無阿弥陀仏のお働きと共にこの人生を歩ませていただき、命終わり次第には、間違いなくお浄土に生まれさせていただくのであると、聞かせていただくばかりでございます。

 


2021年1月21日〜31日

患者とお医者さま

厚狭西組善教寺 寺田弘信

 

私事ではありますが、昨年私は四十歳を迎えることが出来ました。歳が四十以上になりますと、市のほうから毎年この時期に、特定健診の案内が届くようになります。希望する人は医療機関などで、さまざまな診察を受けることが出来ます。

しかし忙しくてなかなか時間を作れない……日頃から健康に気をつけているから必要ない……さまざまな理由で健康診断を受けることに消極的な人もいます。

しかし病気のなかで恐ろしいのは、自覚症状のないタイプです。病気が発覚したときには、手の施しようのない、深刻な状態ということもあります。

どんな病気も完璧に見抜くことのできるお医者さま……そしてその病気を治すことのできる薬……その両方が揃っているにも関わらず、病気で苦しみ続ける患者がいる……そのようなことが起こる原因はいったいなんでしょうか?

それはお医者さまや薬のはたらきを軽んじ、そのはたらきを当てにしない患者自身に問題があるのです。

 

 如来の作願をたづぬれば

 苦悩の有情をすてずして

 回向首ととしたまひて

 大悲心をば成就せり

 

先程の話でいえば、阿弥陀さまはお医者さまであり、薬でもあります。患者はわたしたちのことです。わたしたちの誰しもが抱える病気の原因は、阿弥陀さまのおはたらきを素直に受け入れることが出来ず、疑う心です。阿弥陀さまはそれを見抜いておいでのお医者さまです。患者が病院に来るのを待っているお医者さまではありません。薬を患者に手渡したら、ハイそれでおしまい!のお医者さまでもありません。お医者さまと薬のはたらきを疑い続けてきた患者です。阿弥陀さまとそのおはたらきである『南無阿弥陀仏』を疑い続けてきたわたしです。わたしのところまで、阿弥陀さまのほうから来てくださり、このわたしをそのまま救うと告げてくださっています。わたしの疑いの心を取り除いてくださったのも、阿弥陀さまのおかげでありました。南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……

 


2021年1月11日〜20日

不安な私の、めでたい人生

宇部北組萬福寺 厚見 崇

 

新型コロナウイルスの感染拡大に、不安をおぼえながら、生きているのが今の私たちです。浄土真宗の宗祖、親鸞聖人がおられた時代、今から750年以上前にも、同じく疫病や様々な災害がありました。異常気象により、農作物の食糧不作や自然災害、疫病の流行などで、多くの人々が死亡していくこともありました。人々は死ぬことを恐れ、なぜこんな事で死なねばならないのかと、不安に思っていました。

 

そんな中、親鸞聖人はお弟子にあてたお手紙の中で、このようにいうのです。人が死ぬことは悲しいことだ。しかし、生まれたからには、いつ、どのような形でも、死ぬことは誰もが避ける事はできません。それは、すでに釈迦さまが説かれていることで、おどろくべきことでもないのです。死に方が問題なのではありません。阿弥陀仏のすくいを信じ受ける信心の定まったひとは、疑いの心がないので、命終えたときには、お浄土へ往生し、安らかな仏になる身に定まっているのです。「さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ」とお示しになりました。仏さまのような智慧もない愚かな私も、仏となる身に定まって、めでたく人生を終えてゆけると、親鸞聖人はお教えくださいました。

 

私たちは、必ず死なねばならないのに、死を恐れ、不安を抱え続けています。そんな愚かな私たちを、阿弥陀仏は、真実に目覚めた安らかな仏にしてみせたいと願い、はたらき続けているのです。その阿弥陀仏の願いを信じ受け、信心定まった人は、安らかな仏となることが定まった、めでたい確かな人生を歩みます。

 

親鸞聖人のご命日に際して、京都の西本願寺では、毎年1月9日から16日にかけて、御正忌報恩講というご法事が執り行われています。インターネット中継も予定されていますので、オンラインで、ぜひお参りください。