テレホン法話2023年

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2023年5月11日〜20日

 

「よりによってなぜ」

 

白滝組専修寺 高橋  了

 

先月、長男が小学校に入学しました。入学式の前日、床屋さんで髪を切ってもらい、制服に袖を通して、ランドセルを背負い、とても楽しみにしていました。準備万端で早めに布団に入ったものの夜中にふと息子の身体が熱くなっているのが分かりました。これは明日の入学式は出られないなぁと思っていたら、痙攣を起こしたのです。以前にも高熱でひきつけを起こしたことがあったため落ち着いて対処できましたが、よりによってなぜ今日なのか。

 

そして、ちょうど2年前に同じ症状で救急搬送された日のことを思い出しました。2年前も同じ日付の4月10日でした。こうなれば、何かこの日に理由をつけて、心の落ち着き場所を探したくなるものです。「よりによってなぜ今日なのか」と執われる人間の弱さを我が身に感じました。

 

親鸞聖人は『正像末和讃』に

かなしきかなや道俗(どうぞく)の 良時吉日(りょうじきちにち)えらばしめ

天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ ト占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす

 

とお示しくださいました。仏教の教えに遇いながらも、良い時良い日に執われて、天の神や地の神を崇めつつ、占いや祈りごとに余念がない。なんと悲しいことでしょう。と嘆かれました。

 

浄土真宗は、現世祈祷にたよらない、日の良し悪しを言わないと聞いておりながらも、心の落ち着き場所を探したくなるものです。しかし、日の良し悪しや占いは、時にそれらのことに執われ、人生を縛り、振り回されることもあります。これは主体性を見失った人生とも言えるのではないでしょうか。

 

阿弥陀さまを依りどころとする生活は、碍りの無い道、無碍の一道とお示しです。何ものにも碍げられることのないお念仏の道です。思い通りにならない人生ではあるけれど、悲しみのままには終わらせないと転じられてゆく道こそがお念仏の道でありました。


2023年5月1日~10日

 

「常行大悲の利益」 

 

豊浦組専徳寺 原田 英真

 

『大悲経』にのたまはく、「いかんが名づけて大悲とする。~もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく」

(『本典・信巻』)

 

今アナタがここに電話してきたということは、アナタの周りで、誰かがお念仏を慶ぶ姿を見せてくれた。アナタに大悲を行じてくれたということなのです。その本人にお念仏を勧める意思はなくとも、人を通して、姿を通して、阿弥陀様のお慈悲が伝わるのです。例えば、父母・祖父祖母の朝晩お仏壇にお参りする姿を見ていたことが、数十年後自らの上に花開く(同じことをしている)ということがあるというのです。

 

私にお念仏を慶ぶ影響を与えてくれるお方の一人に、広島県の法友がいます。

その友がある時、詩人・谷川俊太郎さんの「生きる」という詩を文字って、

「称える」という詩を作りました。時々思い出しては、支えてもらっているので、

お裾分けしたいと思います。(※本人の了承は得ております)

 

              「称える」

 

称えるという事。今称えているという事。それは口癖。

タクシーに乗った時、ふといつもの口癖で、

南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と称えてしまい、運転手さんをギョッとさせ、

「なるべく安全運転でいきますから。」と、変な気を使わせてしまうという事。

 

称えるという事。今称えているという事。それはポーズ。

普段は南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏ぐらいの声のボリュームで称えているくせに、

お説教で呼ばれたお寺の講師間では、有難い御講師さんだと思われたくて、

南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏と、

大きな声で称えてしまうという事。

 

称えるという事。今称えているという事。それは妻の最終兵器。

夫婦喧嘩のクライマックスで、

こっちがどんなに、きつい言葉を浴びせかけようとも、

妻は最後には、「ハイハイ。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」

としか答えてくれなくなるという事。

それを言われたら、何も言い返せなくなるという事。

だから、先に言ったもん勝ちだという事。

 

称えるという事。今称えているという事。それは奇跡。

人の悪口や、自慢話で、さっきまで盛り上がっていたお寺さんの飲み会で、

幹事さんが立ちあがり、「それではここで一端、中締めにしたいと思います。合掌」

と言った次の瞬間。「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」

と仏徳を讃嘆したことになる言葉が出て下さるという事。

出るはずのない言葉が出て下さっている不思議ということ。

 

口癖になるほどに称えてくれよと願われてあるという事。

ポーズでいいから称えてくれよと願われてあるという事。

夫婦喧嘩の真最中にも称えてくれよと願われてあるという事。

悪口や自慢話のやまない、その口で称えてくれよと願われてあるという事。

 

称えるという事。今称えているという事。

それは人間の言葉ではないという事。

生死を越えた真実の世界から、流れ出たすくいの言葉だという事。

 

若くして事故死した息子さんのお通夜で、遺体に取りすがってなくお母さんに

届く人間の言葉などないという事。

そんな時、お寺さんである私は、お母さんに何にも言ってあげられないという事。

何にも言うべきではないという事。

お勤めしましょう。称えましょうという他ないという事。

 

称えるという事。今称えているという事。

それは、一瞬にして命の尊厳を回復する真実の言葉が、

この悲しみの大地に響き渡っているという事。

仏様の声を聞くという事。

仏様に呼び覚まされているという事。

仏様に抱かれて歩むという事。

 

称えるという事。今称えているという事。

人は生まれるという事。人は老いるという事。

人は病むという事。人は死ぬという事

人は愛し合うという事。人は傷つけ合うという事。

人は悲しいという事。この世の中は苦しいという事。

 

それでも。 それでも。 この苦しい世の中で、底なしの大悲に出遇ったという事。

雨の日も南無阿弥陀仏。晴れの日も南無阿弥陀仏。

大悲の中で生まれ。大悲の中で老い。大悲の中で病み。大悲の中で命終え。

大悲の中で愛し合い。大悲の中で傷つけ合っているという事。

 

称えるという事。今称えているという事。

 

アナタの大悲の懐。ぬくもり。命という事。


2023年3月1日〜10日 

 

「浄土真宗の名のり」

 

大津東組明専寺 安部智海

 

先日、とあるテレビ番組で、古代メソポタミア人が食べていた料理を、現代の日本に再現するという取り組みが行われていました。その取り組みのなかで、古代メソポタミア文明では、すでにパイ生地包みの料理があったという驚きの事実が判明します。そして、その料理を実際に調理・再現してスタジオの出演者たちで試食するという場面が放送されていました。さて一体、どうして3800年も昔の古代メソポタミアにパイ生地包みの料理があることが分かったのでしょうか。そして、3800年も昔のメソポタミア人の料理をどうやって現代の日本に再現することができたのでしょうか? 答えは、粘土板に刻まれたレシピが現在まで残っていたからです。つまり文字が残っていたおかげで、3800年というはるかな時間と、空間を隔てて、現代の日本でも古代メソポタミア人が食べていた料理と同じ料理を忠実に再現して味わうことができたのです。

 

仏教にも文字として残された経典があります。文字として、お経さまが残っているからこそ、私たちにもその教えの存在を知ることができます。仏陀のお悟りが文字になったものですから、ただの文字の集まりとしてではなく、「お経さま」あるいは「仏説」として、これまで多くの人々に大切にされてきたわけです。ところが、この仏陀のお悟りを、仏陀のお悟りのままに理解することが私たちにはできません。せっかく仏様のお悟りの内容が言葉になって表現されているにも拘らず、料理のレシピのようにはいかないようです。こうした数あるお悟りの言葉のなかで、とくに私の救いに繋がる浄土のみ教えを言葉にして「浄土真宗」と顕され、そのみ教えを『教行信証』という書物にまとめあげてくださった方が親鸞聖人でした。浄土の真の教えがあるということを力強く「浄土真宗」と宣言してくださったからこそ、いま私がこの南無阿弥陀仏に出遇えたのでした。お悟りの世界から煩悩のただ中に生きる私の世界に、南無阿弥陀仏と現れてくださった仏さまのおはたらきを、ともどもに味わってまいりたいものです。


2023年2月21日〜28日 

 

「かみなりお母さん」

 

華松組安楽寺 金安一樹

 

今年で16回目を迎える「いつもありがとう作文」コンクールというものがあります。その中で、2017年、小学2年生の男の子の書いた作文に心打たれました。

 

僕は3人家族です。背が高くて、今まで怒ったことがない、お父さん。毎日、「いそがしい。いそがしい。」と、急いでいる、お母さん。今日は、お母さんについて書きます。

 

お母さんの仕事は先生です。仕事では、優しい先生だと僕に教えてくれました。でも、内緒の話です。お母さん、毎日、僕をたくさんしかります。だから仕事でも、怖い先生だと僕は疑っています。朝六時「もっと丁寧に弾きなさい」朝ごはんの前から、お母さんはしかっています。僕は、毎朝、ピアノの練習をしています。学校からまず帰ってくると、宿題のほかに、ドリルを4枚やります。仕事から帰ってきたお母さんは、次の日のごはんの下ごしらえをしながらかみなりを、たくさん落とします。「丁寧な字で書きなさい」「ゆっくり、考えれば、間違えないでしょ」ごはんの時間です。「左手で支えなさい。野菜もしっかり食べなさい。好きなものだけ食べてはだめよ。」

 

毎日毎日、お母さんかみなりが落ちるので、僕は、六月の土曜日、かみなりがおちる前に家を出ることにしました。行き先は、そうぞうの森、ザリガニをとることにしました。ザリガニが釣れたらもちろん、家に帰ることにしました。ザリガニがとれませんでした。

 

帰り道、行き先を言わないで、出かけたことを、お母さんはとても怒るだろうな、どんな大きなかみなりが落ちるんだろうと、ドキドキしていました。家の前の公園に着くと、お母さんがいました。「うわっかみなりが落ちる」と、思った瞬間、お母さんは、僕を抱きしめながら、「こうちゃん」と言いながら泣いていました。お母さんの涙を見ると、なぜか、僕の目から涙が溢れてきました。「ごめんなさい」僕は泣きながら、勝手に出かけたことを謝りました。お母さんは、泣きながら、僕の頭と、ほっぺと、肩を触りました。そしてこう言いました。「こうちゃんが逃げたくなるほど、しかってごめんね。」「こうちゃんは、宝もの。大事。大切だから、もう勝手に出かけたりしないで。」僕は泣きながら、何回もうなずきました。

 

今日も、僕はしかられています。でも、お母さんのかみなりは、宝ものの僕にしか、落ちないのです。だから僕は、かみなりをたくさん受けて、いつかお母さんみたいに、自分の子どもにも、あたたかいかみなりを落としたいです。

 

 お母さん、いつも、しかってくれて、ありがとう。優しいお母さんも好きだけど、かみなりお母さんも大好きです。

 

お互いが思いあっていてもその思いに気づくことってとても難しいですよね。だからこそ、阿弥陀さまが、相手と自分との思いとが一つに分かち合っていく“一如”というおさとりの世界こそ、大きな喜びと安心が広がっていくのだよと教えてくださる大切な意味をこのお話から教えてもらいました。


2023年2月11日〜20日 

 

「誰一人漏らさないお救い」

 

宇部小野田組法泉寺 中山教昭

 

性別と聞くとほとんどの方が男性と女性の2種類を思い浮かべると思うんです。しかし、最近はLGBTQという言葉があるように2種類だけではなく、色んな性があると言うのが現代の流れであります。タイという国は、LGBTQに寛容な国で、18種類の性があるそうです。女性が好きな男性、男性が好きな女性、男性が好きな男性、女性が好きな女性、女性になりたい男性。他にも、「トム」と言われる、女性とディーが好きで、男性の格好をした女性。「ディー」と言われる、男性的な女性やトムが好きな女性。「トムゲイ」と言われる、女性・トム・ディーが好きな女性など、全部で18種類の性があるそうです。私たち日本人にはあまり馴染みがなく難しく感じますが、なぜタイには18種類もの性があるのか考えてみると、きっと男性と女性の2種類だと漏れる人が出てくるからだと思うんです。すべての人をどれかの性に当てはめようと思ったら、これがいる、あれがいる、こういうのもいる、ああいうのもいると18種類になったんだと思うんです。だから、誰一人漏らさないようにするには、18種類の性が必要だったということだと思うんです。

 

阿弥陀様という仏様は、誰一人漏らさず救いたい、すべての人を救いたいと誓われました。そのためにはどうするべきか長い間考えに考え抜かれました。計りしれないほどのご苦労の末、誰一人漏らさないお救いを完成させてくださいました。そのお救いを私に届きやすいように称えやすいように南無阿弥陀仏という声の仏となってくださったのが阿弥陀様という仏様でありました。


2023年2月1日〜10日 

 

熊毛組光照寺 松浦成秀

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

ほねをくだきても謝すべし

 

 

昨年の年末、12月の年明け直前に祖父の弟、私からしたら大叔父が89歳で往生の素懐を遂げました。寂しさを抱えずにはおれませんが、私たちは大切な方との別れを通して、阿弥陀様の御慈悲にであわせていただけます。寂しいお正月を迎えたわけですが、そんな中、有難い年賀状をいただきました。

 

「昔は石や木、絵を拝んでいると思っていました。でも今は、、、。」その方はご両親との死別をご縁にお寺の御法座にまいられるようになりました。仏縁がまったくない頃は石でできたお墓はただの石に。お寺の御本尊の阿弥陀如来は木で彫られた木像ですが、ただの木に。そして親鸞様や蓮如様、七高僧様は絵で描かれた御絵像さまですが、ただの絵に。お寺の御法座にお参りされる前は、あくまでそれらは石や木や絵でしかなかったのでしょう。しかしお聴聞を通してその方は大きな大きな仏様の世界にであって行かれたのでしょう。その思いが、「でも今は、、、」という言葉にあらわれています。

 

浄土真宗の流れをいただく門信徒にとって人生の目的の一つであります御正忌報恩講が御本山におきまして円成され、そのあとで改めて大叔父の本葬が挙行されました。地域に根差した活動や青少年への布教、伝道に熱心に取り組まれた生涯とお人柄に御葬儀を通して触れさせていただきました。最後に御仏に抱かれての仏教賛歌を参列の皆さんと斉唱いたしました。その歌詞が心に染み入りました。

 

 

一、みほとけに いだかれて

  きみゆきぬ 西の岸

  なつかしき おもかげも

  きえはてし 悲しさよ

 

二、みほとけに いだかれて

  きみゆきぬ 慈悲の国

  みすくいを 身にかけて

  しめします かしこさよ

 

三、みほとけに いだかれて

  きみゆきぬ 花の里

  つきせざる たのしみに

  笑みたもう うれしさよ

 

四、みほとけに いだかれて

  きみゆきぬ 宝楼閣(たまのいえ)

  うつくしき みほとけと

  なりましし とうとさよ


2023年1月11日〜20日 

 

「報恩」

 

防府組明照寺 重枝真紹

 

私たちは、見たり、聞いたりして育まれた意識でもって、ものごとを見ている傾向があります。言い換えれば、聞いたことで意識も変わり、見える世界も変わるとも言えます。私がお預かりしておりますお寺の側には小学校があり、田植えの授業が行われています。授業で田植えを経験した小学生は、お米一粒にどれだけの手が関わっているかを知り、お米の見方が変わるようです。お米そのものは変わりませんのに、意識が変えられることで見方が変えられるのです。見える世界は、意識によって変わるのです。

 

浄土真宗は、聞く宗教、お慈悲の宗教とも言われます。

 

私ども浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、およそ九十年のご生涯を通して、南無阿弥陀仏「われにまかせよ かならず救う」と、常におはたらきくださっている阿弥陀さまのお救いを浄土真宗のみ教えとして明らかにしてくださいました。常に阿弥陀さまに抱かれているお念仏の道ゆえに、「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」と、必ず再び会うことのできる世界がそこにあり、決して死んで終わりではなく、何より独りぼっちではない人生であることを、身をもってお伝えくださいました。そして、そのことを今、多くの方々のおかげにより、お聞かせいただけております。お念仏をお聞かせいただける、この事実が、阿弥陀さまがおられる証であり、私たちが死んで終わりではない証です。お念仏には、私たちに「安らかに穏やかに幸せに精一杯、生き抜いて」との願いが込められています。私たちは、願われているのです。

 

私たちが生きるこの世界は、無常でありますゆえに、私たちにとって思いがけない事も思い通りにならない事も起こります。起こった事実は変えられません。ですが、私たちを慈しみ悲しみのままにはさせないと、そのお慈悲をお聞かせいただき、「安らかに穏やかに幸せに精一杯、生き抜いて」と願ってくださり、常に支えてくださっていることを知らされた限りは、そのご恩に報う生活、お念仏申す日暮らしを共にさせていただきましょう。南無阿弥陀仏。