テレホン法話 2020年   TEL:083-973-0111

山口教区の青年布教使による3分の法話が聞けます。毎月1日、11日、21日に法話は変わります。


2020年2月21日〜29日

 

下松組専明寺 藤本弘信

 

今から50年前、1970年は大阪万博が開催された年でした。

 

この万博では「人類の進歩と調和」というテーマのもと、技術の進歩を示すだけではなく、その進歩が同時に自然や人間性にどのような影響を与え、山積する様々な課題をどう解決し、「調和」のある「進歩」をどう実現していくのかを考えていく博覧会でもありました。

 

50年が経過した今、確かに技術の進歩は日進月歩、めまぐるしいものですが、その反面、環境破壊や国家間の「調和」にはどれほどの進歩があったのでしょうか。もっと身近な所でいうならば、50年の技術進歩によって、私達は以前より幸せになることができたのでしょうか。「いやいや、これからもっと技術が進歩していくのだから、その先に幸せが待っている」というのでしょうか。それは一体いつになるのでしょうか。

 

技術の進歩によって幸せになれるというのは、夢・幻であり、本当の幸せは自分の生き方次第で大きく変わるものではないかと私は思うのです。

 

蓮如上人は『御文章』の中で、「それおもんみれば、人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。(省略)されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり」

 

とお示しくださっています。

 

願うべきは後生、たのむべきは弥陀如来とありますが、たのむとは、お願いをするのではありません。この苦しみ悩む私達を必ず救うとはたらいてくださる阿弥陀様にこの身をそのままお任せしていくというのです。

これこそが、どんな時代、苦しみ、問題があろうとも、時代を超えて親鸞聖人、蓮如上人、そして先達の方々の生き方だったのではないでしょうか。

 


2020年2月1日〜10日

煩悩具足の凡夫

豊浦西組大専寺 木村智教

 

今年は例年にない暖冬ですが空気の乾いた日が続いています。私は生まれつき肌が弱く、この時期はカサカサの乾燥肌に悩まされます。先日、主治医の先生から「ひっかくと余計かゆくなるから、かかないほうがいいですよ。」と言われ、「はい気をつけます」と私はこたえました。 バリバリとかきむしりながら。 別にかきたくてかいているわけではありません。しかしたとえ医者に止められても、「かいたら余計かゆくなる」と頭ではわかっていても、条件が整えばかかずにはいられません。

 親鸞聖人は『歎異抄』にて 「人はだれでも、 しかるべき縁がはたらけば、 どのような行いもするものである 」とお示しくださいました。己の思うままにいい人になれず、如何ともし難いものを抱えているのが、仏様に見抜かれた私の姿です。自らの姿を身を煩わし心を悩ますものを具えた者であると、嘆きと悲しみを込めて親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」とよばれました。

 仏法にであった私が阿弥陀様にすくいに身を任せるので、生命尽きたとき煩悩から解き放たれる。その嬉しさを親鸞聖人は「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ 」と詠われたのです。

 かゆいところをかきながらも、お念仏申さずにはいられません。

南無阿弥陀仏

 

 


2020年1月21日〜31日

泥の中へ

大津東組西福寺 和 隆道

 

これは、私が小学校へ入った頃の話だったと思います。ある日、私は、友達と木登りをして遊んでいました。誰が一番高く登れるか、そんなことを競っていたと思います。私は木登りが得意でしたので、調子に乗ってどんどん枝の先の方へ登っていきました。「みんなも早く来いよ」、私がそう言ったその時です、私が登っていた木の枝が、「ボキッ」と根元から折れてしまいました。「うわーっ」、「ドボッ」、私はドブ川の中へ真っ逆さまに落ちていきました。顔も体も半分以上泥の中に埋まり、身動きがとれません。目も開けられません。なんとか息はできます。「助けてーっ」、私は必死に泣き叫びましたが、友達もオロオロするばかりで誰も助けに来てくれません。私は思いました、「私の人生もここまでか、思えば短い一生であった…」。

するとその時です。「ガバーッ」と、誰かが私の体を泥の中から抱き上げてくれました。それは外でもない、私の母親でありました。我が子のためなら、どれほど汚い泥の中へでも一目散に飛び込んで抱き上げる、それが母親という者なのでありましょう。その後病院へ行きましたが、命に別状はなかったとのことであります。

「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」、我々は、生死の苦海、煩悩の泥の中に沈む者でございます。自らの力では、その泥の中から抜け出すことはできません。そのことを深く哀れんで下さったのが、大悲の親様である阿弥陀如来様でございます。いてもたってもいられずに、南無阿弥陀仏の御名号となられて、泥の中に沈む私の元へ来て下さっておられます。この南無阿弥陀仏のお働きによって、命終わり次第には、間違いなく西方の極楽浄土へ生まれさせていただくと、聞かせていただくばかりでございます。