テレホン法話 2017年   TEL:083-973-0111

2017/2/1120

HOUSEHOME

防府組 万巧寺 石丸涼道

 

 我々がこのたびの人生が終わって初めて参らせていただく処を、如来さまはお浄土と告げて下さいます。このお浄土のことを、浄土真宗の先輩方が「帰っていける家」だと味わって下さいました。家といいますと、ただ家という場所があるのではなく、そこには準備をして待って下さる方がいらっしゃいます。

 実は私結婚しておりまして、私の連れ合いは大阪府の忠岡町というところの出身です。その連れ合いが、息子の顕知を連れて実家に帰ることがあります。すると私の母が言うのです。

「いやあ、快適快適」

私が「なんで?」と聞き返しますと、

「いやね、顕知くんがいたらテレビをつけたら、やれアンパンマンだ、やれドラえもんだ、観たいテレビが全然見れん。でも顕知くんが大阪に行ってからは快適、私の好きな韓国ドラマが見放題、いやぁ快適快適」

と言うのです。私の母は「チャングムの誓い」から始まりまして、今頃は「愛人がいます」という恐ろしいタイトルのドラマを観ているくらいの韓流ドラマファンです。だから快適というんですが、それも持って二日。三日目にもなると私のもとまでやってきて言うんです。

「ちょっとあんた、あの嫁とメールしてないの?」

「しとるよ、どうしたの?」

「顕知くんの写真は届いてないの?届いてたら見せて」

「なんで?」

「あのね、顕知くんがいなくなってから二日間くらいは騒々しくなくて快適と思っていたけど、三日目ともなると寂しくなってきた。会いたくても会えんからせめて写真を見せて」というのです。

 それで帰って来る前の日になると、鼻歌を歌いながら掃除機なんかかけております。挙句の果てには、あれだけ憎んでおったアンパンマンのおもちゃなんかを買って待っておるのです。家というのは準備をして待っている人がいる処なのだと、そのとき思いました。

そして、そのとき同時に思ったのが、もしかしたら母は私のことも同じように待っておったのかなということです。私は高校の三年間、山口を離れて北九州の門司というころで寮生活をし、その後京都の大学に四年、大学院に二年と、都合九年間ほど一人暮らしをしておりました。その私が実家に帰るとなったとき、私は何の気なしに帰るだけでありましたが、もしかしたら母は「あの子が帰って来るんだったら布団を干しておかねばならんな。あの子はどうせろくなもの食べていないだろうから、何か美味しいもの食べさせてあげなきゃいけないな。何を作れば喜ぶかな」と準備をしながら待っておったのではなかったか。一人暮らしをしていた九年間、私は自分ひとりの力で生きていると思っていたけれど、もしかしたら帰っていける家というものに支えられておったのかもしれない、帰っていける家というのは有難いことだな、とそのとき思いました。

 

今、お浄土を帰っていける家と味わっていくということは、ただお浄土という場所があるのではなくて、そこには準備をして待って下さる人がいらっしゃいます。我々はそのお浄土というものに今を支えられているのかもしれません。死んで終いの命じゃない、如来さまが「あなたが参っていくお浄土があるぞ。必ずあなたを連れ帰るぞ」と南無阿弥陀仏の名の声となって、私のもとまで来て下さっています。そのお浄土で先に参った方々が私のことを待って下さっていますから、この度初めて参るお浄土ではありますが、皆が「間違わさんぞ」と準備万端で待って下さっている「帰っていける家」だとお聞かせに預かるのです。

2017/1/1120

「 疑いという癖 」

岩国組  浄蓮寺  樹木 正法

 

 『一念多念文意』という親鸞聖人著述のご文には

きくといふは 本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり

またきくといふは 信心をあらはす御のりなり

とあります。

 

阿弥陀さまが誓われたこの私を必ず救うという願いを聞き受けていくということは、確かなすくいのはたらきが至りとどき、それによってこちらの疑いがまったく晴れたすがたのことで、そのすがたこそ他力の信心なのだというのです。ですからこの信心のことを「無疑心」ともいい、「疑蓋無雑」ともいいます。それは、仏さまとこの私との間に、自力のはからいという疑いの蓋が差し挟まれないということです。仏さまの方が真実まこととなってこの私へ至りとどいてくださってあるのに、こちらの勝手な常識を雑えて仏さまを聞いてしまえば、仏さまのはたらきを邪魔してしまうことになるということです。

 

私事でございますが、最近電動歯ブラシというものを購入いたしました。ブラシの方が電動で歯を磨いてくれるので、非常に楽をさせていただいております。ただ中々扱いに慣れませんでした。といいますのも、習慣というのは恐ろしいもので、今まで使っていた歯ブラシのようについつい手を素早く上下左右に動かしてしまうのです。それも無意識のうちに動かしてしまっています。しかし、こちらが手を動かせば動かすほどブラシの動きの邪魔をしてしまいます。こちらがいらぬ仕事をせず、ブラシの動きにまかせればブラシの方がしっかり仕事をしてくれるのです。なのに、こちらが邪魔をしているということは、ブラシの動きを疑っているということす。頭ではわかっていても、それでも気を抜くとまた知らず知らずのうちに手を動かしてしまっている始末です。

 

 今までの歯ブラシは私にとっての日常であり、それを扱うことが常識でしたが、電動歯ブラシという非日常に変わることで、その扱い方は私にとって非常識となったのです。非常識の中で常識という「癖」が無意識に行われています。実はそれが「はからい」となり「疑い」となるのでしょう。

 

五濁悪世の衆生の  選択本願信ずれば

 不可称不可説不可思議の  功徳は行者の身にみてり

 

 

思議を超えた仏さまの世界は、私の常識ではかれば、閉ざされるばかりか仏さまのはたらきを邪魔してしまいます。逆に私の築いてきた価値観は仏さまの前ではすべて崩され、捨て去られていきます。そのとき「信心の行者」となるのです。