お寺を訪ねて〝ホームページ版〟

周防のご本山

 つつじの美しい永源山公園(周南市)を南に抜けると、政所山善宗寺(香川行信住職)がある。

 古くは周防の国のご本山と呼ばれ、東は岩国から西は船木までの周防一円と長門の寺門を加えた、百有余の念仏堂宇の中心が「富田の善宗寺」であった。(『善宗寺末寺牒』が現存する)

 善宗寺開基の明西房は、文安元年(1444年)京都で中興の祖蓮如上人の御教化をうけ、上人御真筆の六字名号と正信偈御文を頂戴した。善宗寺の寺宝として、今も大切に保管されている。

 また、第八代順真住職の時、毛利輝元公の夫人、清光院殿の位牌が、善宗寺に預けられて以後、毛利藩との縁も深くなり、輝元公二男・徳山藩主就隆公からは、30万の知行が扶持されたとも伝わっている。

葆晃(ほうこう)和上のご功績

 善宗寺の境内(本堂西側)には、第十六代葆晃住職の顕彰石碑「円珠院釋葆晃和尚碑」が建っている。(写真)

 越後真照寺の二男であった葆晃師は、毛利藩お差向けの養子として善宗寺に入寺し結婚、明治元年に法灯を継承した。

 時の明治新政府は、王政復古によって祭政一致をとなえ、令制にならって神祇官を再興し、神仏分離令を発して神道を政教一致の基調とする方針をうちだした。そのため全国に廃仏毀釈の嵐が吹きあれた。政府はさらに、大教(神道)宣布をおこない、神社制度を制定した。

 徳山藩においても、寺院合併の論がおこり、藩内の寺院を全部徳山岐山のふもとに移転させることとなった。その第一着手として、善宗寺本堂を大寂浄院と称して、藩中の諸寺をその両側に併列し、寺町をつくる計画をたて、善宗寺本堂は解体・移転された。

 その頃の葆晃師は、ご本山にて光尊法主を助けて、宗政に従事されていた。特に、大洲鉄然師・島地黙雷師・赤松連城師など山口県出身者と共に、明治政府の宗教政策を批判し、廃仏毀釈廃止運動に力を注がれた。

 仏教各宗の代表と提携して政府の要路に迫り、暴挙を封じ、誤った考えを正し、ついに、神道を国教とする政府の政策は、失敗に終わらせた。

 鉄然師・黙雷師・連城師等と共に葆晃師は、本願寺の改革を進め、廃仏毀釈後の仏教復興に尽力された。

 善宗寺の本堂も再び富田の地に戻され、明治11年に再建された。

 その後、葆晃師は、本山大学林(のちの龍谷大学)の綜理(現在の学長職)として育英に従事し、当時「東に慶應義塾・西に大学林」と言われ、日本初の白壁の学舎を建築。

  明治30年には、勧学職を授けられた。葆晃和上の安居講義録の一部が、今も善宗寺に保管されている。(写真)

 そして、翌31年10月、行年64歳でご往生された。

善宗寺の庭園

 斉藤忠一師(京都の有名庭師)の作による四つの庭園を見ることができる。

法然上人・親鸞聖人・蓮如上人のお姿を石で喩えた「有縁の庭」。永寿の象徴である神仙蓬莱の世界を現した「永寿蓬莱の庭」。釈尊涅槃のお姿を表現した「回向涅槃の庭」。

 書院前に広がるのは、「信心二河譬の庭」(写真)。赤石で火の河、白石で水の河を現し、真ん中には長石で白道が架けられている。阿弥陀様やお釈迦様、諸菩薩を表現した石が並んでおり、西側に配された阿弥陀様の石からは、「まかせよ必ず救う」とのお喚び声が、今にも聞こえそうである。