お寺を訪ねて〝ホームページ版〟

一塊の雲ありいよいよ天高し (虚子)

 爽やかな秋空のもと、美祢市街より長門方面へ3キロ。高台にある広大な長楽寺の新境内地のロケーションは、まさにこの虚子の句を思い起こさせた。

 美祢西組・長楽寺(河野宗致住職)は、三代にわたる寺族と門信徒の悲願である寺基移転事業を完成させた。 

 にこやかにお迎えくださったご住職は、境内から川の方向を指さされた。そこには川を挟んで遥か向うに、旧境内地を望むことができた。

安駅前の長楽寺

 長楽寺の境内地は、昭和24年までは、美祢線の重安駅前に位置していた。裏山までの広い境内には、鳥がさえずり蝶や蜻蛉が戯れ、近所の子どもたちの最高の遊び場所であったという。子どもたちは自然にお寺に親しみをもち、仏法を尊ぶ大人に育っていった。

 ところが、この裏山は良質の石灰岩が採れ、第二次世界大戦中にセメントの増産のため、ついに採掘工事現場となってしまった。

 今までの静かな境内は一変。本堂の縁側は真っ白くなり、発破の騒音に包まれた。当時、屋根を突き破って飛んできた岩石によって傷ついた座卓が広間に置いてあり、その当時の公害の凄まじさを今も物語っている。 

 もっとも当時は公害というものはなく、ただ黙って耐えるだけの時代であった。

利宗の地に移転

 当時の坊守 (現住職の祖母)は、ご門徒から妙好人と讃えられた人で、住職と長男を兵隊にとられても、ご門徒とともにお寺をしっかりと護持していかれた。

 裏山の採掘のために境内地の移転を迫られる状況の中、期待の長男が昭和19年12月、フィリピンで戦死。

 戦時中から迫られていた境内移転を昭和24年にやむなく了承。ついに長楽寺は隣の利宗の地に、わずか三百坪の境内を与えられ、本堂と庫裡が押し込められるようにして、今では考えられないような条件で建物の解体移転が行われた。 

 住職はまもなくご往生。次男・静爾師が大学を出て十七世を継職。ご法義流布に尽くされ、山口別院創立より副輪番も務められた。しかし、長楽寺再興の悲願を暖めながら平成7年に62歳の若さでご往生。 

 元の広い境内地のように、ご門徒がお寺参りをして心が安らぐようなお寺を再興したい――。十七世住職の葬儀に於いて、この願いが遺言として門信徒に伝えられた。

三代の悲願成就

 「念仏に腹をくくられて、最悪を覚悟して最善を尽くせ。あとはなるようにしかならぬ」。 これは、ご住職の祖母である十六世坊守が常に申しておられた言葉である。この言葉に支えられて、ここまで来られましたと、移転工事のことを振り返られた。 

 奇しくも、川向こうの小高い山がセメント会社から売却の話しがあり、総代さんやご門徒からも境内地移転の気運が盛り上がった。

 

 その土地を取得できたのが平成9年10月。それから寺族・門信徒が心を合わせ、5年の歳月をかけて、造成工事、本堂・庫裡・門徒会館の新築工事が見事に完成した。

 三代にわたる悲願の成就。先々代が「種をまき」、先代が「大切に育て」、そしてここに「花が咲く」という営みは、昔から伝わるお同行を育てる営みと重なってくる。

 新しいお寺に若い人たちもお気軽にと、先般は笑福亭仁智師匠を招いて落語会を開催。日曜学校もまもなく再開して、ご住職の種まきが着々と始まる。