テレホン法話_2011年

【如来の作願をたづぬれば】

宇部小野田組 明照寺 岡原弘和


 仏教では「諸行無常」という事をいいます。ありとあらゆるものは常ではなく変っていくんだ、それがこの世の道理なんだという事です。仏教のあるこの国ではむかしから、季節が変わり花が咲いたり木々が芽を吹いたりするのを見ては「諸行無常」といい、また人の世が変わっていくのを見てはなるほど「諸行無常」だといってきたわけです。「無常観」は日本人の大きな特色であるといえます。

 しかしこの「諸行無常」という道理をいつどこにいても「なるほど」と思えるかというとそうでは無いようです。いざ自分の身内に不幸が訪れた時に「なるほど諸行無常だなあ」と季節の移ろうのを感じるがごとくに思えますか?

「諸行無常なんて知りません。私の家族が死んだんです。他の人じゃあないんです。さびしいんです。苦しいんです」と心ふるわせて涙流すのが人間の情であります。

 そうやって道理を道理と受け取れずに赤子のごとくに泣き叫ぶこの私をご覧になったお方の名前を法蔵菩薩と仰います。このお方は私の事がかわいくて仕方がなかったんです。そうして私の為に一生懸命になりました。五劫思惟して願を建て兆載永劫の修業をして「南無阿弥陀仏」と声になる名前の仏さまとして届いて下さいました。

  

    如来の作願をたづぬれば   苦悩の有情をすてずして 

    回向を首としたまひて    大悲心をば成就せり

 

さびしい時、苦しい時、泣こうがわめこうがいつも阿弥陀さまがごいっしょであります。

【声の仏様】
熊毛組 蓮光寺 阿部智史

 今、「仏像ブーム」と言われ、美しいお姿を収集したり、見て楽しむそうです。しかしどれだけ集め、どれだけ見ても何の利益もありません。お念仏称えさすために現れ出てきた仏様は、お念仏称えることで報われ仏様となりうるのです。
「うそも方便」と申しますが、本願寺から賜ったご本尊の裏側には方便法身と記されています。本来の仏様ではないと言うことになります。そうしたら本来の仏様はどちらに居られるのでしょうか。お寺の本堂に居られる御木像の仏様が本来の仏様かというと、こちらも方便法身の仏様です。ご本山阿弥陀堂の仏様も方便法身の仏様です。
 阿弥陀様のお救いは、あらゆる衆生に信じせしめ、お念仏称えせしめて必らず救うというお誓いです。信じたら救う、お念仏したら救うと私のはからいをあてにしたものではありません。南無阿弥陀仏の六字の名号と仕上がって、私のところにいたりとどきご信心となり、声にとどけば称名となって下さる仏様が阿弥陀様と申し上げる仏様です。ですから私の口から出る南無阿弥陀仏のお念仏が本来の仏様と申すことが出来ます。
しかし何もないところで手を合わせお念仏称えるような性分では無い私のために色をとり、相をとられて現れ出てくださった仏様でありますから相がある「有相も方便」と申し上げるのです。嘘ということではなく、お念仏称えさせる手立てとして現れ出てくださった仏様を方便法身の阿弥陀様と申し上げます。
 私とはなれずおはたらき下さる阿弥陀様が居られることを喜ばせていただきながら、お念仏相続させていただきます。

【ほとけさまのふらすあめ】
熊毛組 光照寺 松浦成秀

 お釈迦様が仏教を興隆されたインドと、浄土真宗の七高僧様のなかの曇鸞大師や善導大師がおうまれになった中国とにはさまれてブータンという国があります。そこは世界で一番高い山脈であるヒマラヤ山脈のある地帯に属している、世界で唯一大乗仏教を国教としている国です。
 その国に、昨年の6月、仏教遺跡参拝に行ってまいりました。ブータンは本当に素晴らしい国で、人々が仏教の教えを喜びながら生きておられました。町を行く人々の顔が本当に穏やかです。ブータンの国教である大乗仏教はチベット仏教の流れを汲む密教系の教えです。浄土真宗の開祖の親鸞聖人のように、ブータンでは彼の地に仏教を広めたグル・リンポチェという方が、大変な尊敬を集めております。そのグル・リンポチェが1週間で数百メートルもある断崖絶壁の中腹に立てたといわれる伝説の残っている寺院があります。そのお寺の名前をタクサン寺院といいます。途中休憩の出来る、茶屋までが1時間半。そこから更に1時間半歩いたところにそのタクサン寺院はあります。往復6時間の険しい山道です。その山にブータン人ガイドのテンジンさん案内されて登っていた時のことです。雨が降り出しました。私が傘を持っていなかったので、テンジンさんが持っていた傘を私に渡そうとしてくれました。
「松浦さん、この傘をどうぞ。」
「いやいや、テンジンさんが濡れてしまいますからどうぞ使ってください。」
しばらく、テンジンさん考えた後、
「お釈迦様がお生まれになったとき降った雨を何と言いますか?」と聞かれた。
「甘露の雨のことですか?」
「そう、それです。私たちにとってこのありがたいお寺に御参りできることは本当にうれしいことなんです。だから今降っているこの雨は甘露の雨なんです。ですからこの雨に濡れる事も私にとっては喜びなんです。」とおっしゃいました。
 無量寿経の中に澍法雨という言葉があります。仏の御教りは乾いた大地に雨が降るように私達に仏法の雨となって注がれる。という意味です。2500年前だけでなく今この瞬間にも降っている甘露の雨を通して、我が身に至り届いてくださっておる本願のありがたさをちょうだいすることであります。

【つねに私を照らす光】

厚狭北組 萬福寺 厚見慶崇
 
 テレビであるタレントがこのたびの東日本の大震災の話をしていました。その方が被災地を訪ねたときに、被災者の方からこんな話を聞いたそうです。
 「被災地ではテレビで報道されている以上に、悲惨な状況のところがある。それでも、人々は復興へと歩み始め壊れた家の後片付けなどをしている。そんな中に、泥棒がいるんだ。崩れかけた他人の家に入り、勝手に残っていた現金や家具を持ち出している人がいる。でもねぇ、自分はそれを非難する事はできない。もしかしたら、その人はもう何もかも無くなって今日明日を生きるためにやっている事かもしれない。同じ被災者として気持ちが分かる。だから、私はとがめる事はできない。」と。
 私はこの被災者の方の話を聞いて、阿弥陀様のはたらきのようだと感じました。
『歎異抄』には、親鸞聖人は「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と仰ったとあります。私達は生きるなかで、縁によっていかなる行いもしてしまう存在なのです。あの何もかも失った状況では、残った家族のため、自分が生きるためと、私も人のものを盗まざるを得ないかもしれません。
 その私達にはたらき続ける阿弥陀様のことを親鸞聖人はこのように和讃にうたわれました。
   煩悩にまなこさへられて
   摂取の光明みざれども
   大悲ものうきことなくて
   つねにわが身をてらすなり
 縁によってはいつ悪の行いもしてしまいかねない私達。だからこそ、阿弥陀様は全ての者を常に照らし続けます。悪い行いもしてしまう迷いの世界から真実の世界であるお浄土に生まれさせるからと呼びかけ通しなのです。
 あの泥棒も、泥棒に我が身を重ねたあの被災者の方も、そして私もともに阿弥陀様の光明に照らされた仲間でありました。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

【倶会一処】

豊浦組 蓮乗寺 金海明弘

 

 もうすぐ4歳になる息子が最近よく聞いてくることがあります。

「ぼくがお父さんになったら、お父さんは何になるの?」

私は 「歓ちゃんがお父さんになったら、お父さんはおじいちゃんになるんだよ」と答えます。

すると今度は、

「ぼくがおじいちゃんになったら、お父さんは何になるの?」と聞いてきます。

私は 「歓ちゃんがおじいちゃんになったら、お父さんはひいじいちゃんになるんだよ」答えます。

さらに続けて 「ぼくがひいじいちゃんになったら、お父さんは何になるの?」と聞いてきます。 私は

「歓ちゃんがひいじいちゃんになったら、おとうさんはまんまちゃんになるんだよ」と答えます。

それを聞いて、息子は目を少し潤ませながら、

「歓ちゃんがおじいちゃんになったら、お父さん死んでいなくなるの」と聞いてきます。 私は

「そうだよ。でも大丈夫。歓ちゃんも死んだらまんまんちゃんになるから、またまんまんちゃんの国で会えるんだよ」と答えてあげます。

すると息子はうれしそうに 「よかった。それやったらええわ」と笑顔で答えてくれます。

 

 娑婆での出会いには必ず別れがあります。しかし、私たちはお浄土という必ずまた会える世界を阿弥陀様よりいただいています。 この度の親鸞聖人750回大遠忌に用いられる、宗祖讃仰作法音楽法要の中に、宗祖御消息の

「この身は いまは としきはまりて さふらへば さだめて さきだちて  往生し 候はんずれば 浄土にて かならずかならず まちまいらせ さふらふべし」

というご文が引かれております。

 お浄土では、親鸞様にもお会いできることでしょう。しかも、お浄土とはお互い仏として会える世界であります。 そう考えると、とてもワクワクしてきますね。遇いがたくして今遇っているお念仏のみ教えをたくさん聞かせていただきましょう。 南無阿弥陀仏

【御用のある世界】

岩国組 専徳寺 弘中満雄


 今、お参りの際、ご門徒の皆様にアンケートをしています。質問の内容は「あなたは、命が終わったらどこへ生まれたいですか?」
 当初、ほぼ全員「お浄土」と応えてくださるだろうと期待していました。しかしおよそ半分は「天国」「この世」「自然」「お星様」といった、お浄土以外です。住職として恥じ入るばかりです。
 浄土真宗は、お浄土を願う教えです。その事に関して、七高僧のお一人、源信和尚が「お浄土は恩返しができる世界」として、こんな事をおっしゃっています。
 「人の世とは、無常の世、願い通りにならないものだ。子どもが大きくなって、いよいよ親に恩を返そうと思った時には、もう親はいない。またたとえ親がいても、厳しい現実の前では恩を返す力、経済的ゆとりがないのだ。親だけではない。恩師・妻子・友人、みな同じである。……いや、私は本当に恩返ししたいと思っているのだろうか。私の本音は、たくさんの恩に対する心どころか、欲望を空しく振り回し、いよいよ迷いの罪を重ねているではないか。その結果、また私は迷いの境界を巡るのだ。親をはじめ多くの恩人達と、別れ別れになってしまうのだ。
 この私は命終わってどこへ行くのだろう。地獄か、餓鬼か、畜生か。自業自得だから仕方がない。しかし、もしも野の獣、山の鳥となったならば、どうしてあの方たちのご恩を返し、お礼ができよう。悲しいかな、全て忘れてしまうのだ。
 しかし、もしお浄土に生まれ、仏になったならば、必ずあの恩あった人達全員に、遇うことができるのだ。お礼ができるのだ」。
このように源信和尚はおっしゃるのです。
 「天国、冥土、草葉の陰……いろんな“あの世”がありますね。でも私にはご用がありません」、そうおっしゃったお婆ちゃんがおられたそうです。そうです、他の世界が悪いというわけではないのです。けれども私達には、お浄土へ参る大切な用事・目的があるのではないでしょうか。
 最後に、あなたにおたずねいたします。

「あなたはいのち終わったらどこへ生まれたいですか?」

【如来誓願の薬】
防府組 西法寺 五十香正宏


 緩和医療医・大津秀一氏が書かれた『死ぬときに後悔すること25』という本には、終末期の患者さんがよく後悔されることを二十五項目にまとめてあげておられます。「健康を大切にしなかったこと」、「自分のやりたいことをやらなかったこと」等を挙げておられました。その中で、「生と死の問題を乗り越えられなかったこと」、「神仏の教えを知らなかったこと」という項目がありました。
 それを見た時、数年前の新聞に「何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった」とあったことを思い出しました。日本人は自分が「無宗教」だと思っている方が多いようです。しかしながら、その中には自分で自分だけの宗教をつくっておられる方おられるのも事実です。先程の本の中にある「生と死の問題を乗り越えられなかったこと」についても、あれをしたら地獄に堕ちない、これをしたら成仏出来るというように、漠然と自分の基準で教義をつくっておられるようです。
 親鸞聖人は、このような思い込みは阿弥陀様のみ教えをいただく障げになると言われています。正像末和讃に「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」とあります。自らの基準で自業自得の道理のみを信じる行者は、阿弥陀様のすばらしい智慧を疑ってしまうので真実報土には往生できないということです。
 そして阿弥陀様の働きについては、「如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり」といわれています。薬が毒を滅するように、阿弥陀様の本願成就の功徳はこのような私達の偏った考えや愚痴を転じて往生成仏の道を与えてくだるのです。「神仏の教えを知らなかったこと」を後悔しないよう、共に阿弥陀様のみ教えを聴聞していきたいものです。

【私を導いてくれている】
山口北組 円正寺 大澤直誓


親鸞聖人のお師匠様、法然上人の門弟に「聖覚法印」という方がおられまして、そのお方が記されたお書物に『唯信鈔』というのがあります。
このお書物は、親鸞聖人も大切に読まれておられたと聞いております。
そのお書物の最後にこんな言葉が記されてある。
『今生ゆめのうちのちぎりをしるべとして、来世さとりのまへの縁をむすばんとなり。われおくれば人にみちびかれ、われさきだたば人をみちびかん。生々に善友となりてたがひに仏道を修せしめ、世々に知識としてともに迷執をたたん』
先日、90歳になられるおばあちゃんがお孫さんと一緒にお寺へご法事にこられた。
その法事は、おばあちゃんからすると娘、お孫さんからすると母親に当たる方のご法事だった。過去帳をみて計算すると、ちょうど丸10年、11回忌となる…
この辺りでは年回法要は7回忌の後は13回忌を勤めます。
ですから11回忌って…と思いましたので、その旨を聞いてみたら…
どうも今日来られたお孫さんの体調が悪いという。お孫さんっていっても歳は30歳前後ぐらいですが、いろんな病院にいってはみたが、悪いところがみあたらないと言われる。でもどうも体調がよろしくない…。そこでふっと思い出したようにおばあちゃんがお孫さんに
『あんたぁ、お母さんの法事はちゃんとしたんかね?』
っと訪ねたら、7回忌をしてなかったという…
あぁ!!体調悪いのは、それが原因じゃ!!
っと思って、時が過ぎてますが今日、7回忌を勤めたくて来ました…と…
人間は弱いですから、ふっとした時に不安が生まれ、迷いが生じる…
そのとき、亡き方々が縁となり導きとなって、私の迷いを断たせてくださると聞くのが先ほどの言葉であります。
阿弥陀仏のみ教えを聞かせてもらうと、亡き方々は極楽浄土に生まれさせていただき、仏さまとなられたと聞かせてもらいます。そして仏さまとなられた故人が、私たちを導かんがために、これからお用きくださると常々きかせてもらっています。
ならば、法事を忘れたからといって、娑婆に残った縁あるものたちへ、災いを侵すようなことをされる方ではないのです。「あなたも仏となる道を今歩んでいる」と教え導く方となられたわけですから・・・
おばあちゃんからすれば亡き娘さん、お孫さんからすればお母さんは、世々で暮らす私たちの善き友となり、仏の道へと導くお方であって、決してあなたを落とし入れるようなことをされる方ではないですよ…とお話させていただいたことです。